村上春樹さんと、米文学者で現在文芸誌『MONKEY』の編集を務めている柴田元幸さんとの、翻訳を題材にした対談集です。
村上春樹さんがいろいろと翻訳しているのは有名な話で、わたしも両手が塞がるくらいは読みました。
先日も、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだばかり。
キャッチャー・イン・ザ・ライJ.D.サリンジャー 村上春樹訳 サリンジャーの有名な著作。「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルで目にした方も多いのではないでしょうか。 […]
お恥ずかしいことに、わたしは米文学に疎くて(というか関心が薄くて)、春樹さんの翻訳本は、村上春樹さんが訳しているから読んだところが大いにあります。
それでも、そういう入り口をきっかけに、これまで自分のなかになかった世界が開かれるのは(たとえそれが、ほんのわずかだとしても)、それはそれで悪くない体験です。
きっと本書も、村上春樹さんじゃなくて違う人が対談していたら、手に取らなかっただろうなと思います。
そういう意味では、翻訳に関心のある人にも、米文学に関心のある人にも、いろんな方向に謝らないといけない、なんとも部外者的な感想です。すみません(と、最初に謝っておく)。
米文学と、日本における翻訳の歴史について
本書は大まかに2つの主軸があります。
米文学と、日本における翻訳の歴史についてです。
本書は、そのどちらかに造詣が深いと(関心が高いと)、けっこう掘り下げたことが書かれているので、面白いと思います。両方好きなら完璧です。
わたしは、どちらも門外漢なので「ふーん、そうなんだ」と外野席の端っこで覗き見する感覚でした。
米文学
米文学者で東大の名誉教授でもある柴田先生と、10代のころから米文学の原書を読みあさっていた村上春樹さん。そしてふたりとも翻訳家でもある。
となると、このふたりがタッグを組んだら、それは米文学の話が面白くないわけありません。
翻訳についてもそうだし、米文学の作家の変遷についても、いろいろと話題が尽きません。
わたしはというと、今更ながらに、自分が米文学に全然関心を寄せていなかったんだなあということを、まじまじと実感することになってしまいました。(つまり全然わからない)
わたしがこれまでよく読んできた翻訳本で、欧州のひと昔前の小説がメインです。
古典とまではいかないけれど、モンゴメリの「赤毛のアン」から始まって、ディケンズ、オースティン、トルストイ、ドストエフスキー……ってカナダとイギリスとロシアしかないじゃないか。
いや、フランスの「ボヴァリー夫人」とかも読んだことありますけど。
あ、思い出した。米文学で自分から読んだのはミッチェルの「風と共に去りぬ」です。
と、わたしはあんまり多読する人でもないので、まばらで語れるほどにはボキャブラリーがないんですよね。
おふたりとも、どこからそんなにするすると話題が出てくるんだろうというほど話題豊富。
それってしっかりと読み込んで自分のものにしないと出てこない対談で、羨ましいなあと本書を読みながら思いました。
翻訳の歴史について
米文学もそうなんだけど、そもそもの日本の翻訳の歴史についても取り上げられています。
翻訳の歴史、明治時代以降に西洋の文学が入ってくる黎明期については、柴田先生が『日本翻訳史 明治篇』としてページを割いておられます。
これはけっこう面白かった。
というのも、明治時代までは西洋のものを「翻訳する」という概念すらなくて、江戸時代を引きずっている明治初期と、時代の流れとともに翻訳のされ方も変わっていくのがよくわかるからです。
時代がものすごい速さで変わっていく時代に、翻訳というものを切り取ってみてもそういう息遣いが伝わってくる。
明治の翻訳を考える上でわくわくするのは、すべてどれが正解かわからない状態でやっていたということです。(中略)誰もがいろんなスタイルを使えたし、どれが主流・正解になってもおかしくないという緊迫感があった。「である」調か「ですます」調か、程度しか選択肢のない現代よりはるかにスリルを感じます。
(P130 『日本翻訳史 明治篇』)
二葉亭四迷とか、歴史の教科書でしか触れたことのなかった人が、どんな風に四苦八苦して翻訳に取り組んでいたのかが書かれています。
当時の日本の学識とか(漢文が優位という流れは、まだこの頃も残っていた)、そこから大きく変わっていく流れとか、いまの時代だと考えられないような翻訳の仕方とか、なかなか普段触れることのできない世界を知れたのは面白かったです。
いま当たり前みたいに翻訳本を読んでいるけれど、これはとっても貴重で幸いなことなんだなあと思いました。
翻訳ついでに、村岡花子さんについて
本書とはまったく関係ないのですが、翻訳つながりで、村岡花子さんについてついでに取り上げます。
数年前にNHKの朝ドラ「花子とアン」でも話題になりましたが、何を隠そう、「赤毛のアン」を最初に翻訳した方です。
「花子とアン」は、全編しっかりではないけれど、朝ドラのなかでは割とよく見ていたほうでした。
わたしの浅い読書歴は「赤毛のアン」から始まったんだけど、10代のころは、それこそ村岡花子さんが翻訳されたモンゴメリ作品にどっぷりと浸かって過ごしました。(新潮文庫から出ている村岡花子訳のモンゴメリ作品は、全部持っている)
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たまたま以前、村岡花子さんをテーマにした本を読む機会がありました。
村岡花子さんといえば、モンゴメリの作品以外にもたくさん翻訳されています。
本書は、そんな村岡花子さんの生涯について、写真や遺品などもたくさん収録されています。
カトリック系の寄宿舎で、生の英語に触れ、当時の女性としてはめずらしく生きた英語に触れていた。少年少女も、大人が読んでも面白い文学を、読みやすい文体で世に広めた。
翻訳を語る上で、村岡花子さんはその生き様が色濃く反映されています。教養も深く、子どもへの視点はいつも温かく、膨大な仕事量もこなされ、時代を超えてすごい人だなあと思います。
わたしは村岡花子さんの翻訳にほんとうによくお世話になったのですが、あの美しい文体が何度読んでも飽きのこない体験に寄与してくれていたのだろうなあと、改めて思いました。
翻訳について考えてみる
本書に戻ります。
本書の最後は、『翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう』と題され、公開で行われた(2017年4月27日紀伊國屋デザインシアター)対話だそうです。
ここでは実際に、レイモンド・チャンドラーの原文をもとに、春樹さんと柴田さんがそれぞれに翻訳をされています。
同じ原文を基にしていても、訳す人によって印象や文章がこんなにも変わるんだというのが目に見えて比較できるので面白いです。
翻訳って、英語を完璧に理解できるだけではなく、日本語をどう使うかとか、どう訳すかとか、センスもいる、より高次な作業なんだなと思いました。
まして文学を翻訳しようとする場合、そこには文学的センスも必要となります。
わたしは外国語は苦手で苦手で、いまでも英語は大の苦手なのですが
翻訳は、わたしには到底無理だなあと思いました。(何を当たり前のことを言っているんだ、コイツと突っ込まれそうです!)
結び
たぶんわたしはこの本のエッセンスを十二分に満喫できていないと思うのですが(いろいろ教養が不足しすぎて)、それでも新たな発見がありました。
本を読むのって面白いなあと、昔よりも思うことが最近増えました。
春樹さん訳のチャンドラーもまた読んでみたいと思います。
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