きっかけは「白い道と赤いワイン」
前に読んだ村上春樹さんの「ラオスにいったい何があるというんですか」という紀行文集で、イタリアについて書かれた「白い道と赤いワイン」に
イタリアで書いた短編小説のひとつに、そんな地方都市旅行のエピソードを入れたことがある。主人公がルッカという、トスカナ北西部にある町で、高校時代の級友にたまたま再会する。(「ラオスにいったい何があるというんですか 紀行文集」P193)
という一節がありました。
春樹さんの作品はだいたい読んでいるのですが、わたしは割と短編より長編のほうが好きです。つまり、短編は一回読んで読み返さないことのほうが多い。
そのため、この一節に「あれ、それはどこの短編のことだろう」と思ったのです。
気になりだすとムクムクと好奇心は育っていきます。
ネットのある時代は便利です。ググったらわかりました。
それは「TVピープル」という短編集におさめられている「我らの時代のフォークロアー高度資本主義前史」でした。
わかったらあとはカップラーメンを作るより簡単です。
そう、久しぶりに(ほんとうのほんとうに久しぶりに)、「TVピープル」を再読です。
短編集「TVピープル」の印象
かなり昔に読んだけれど、この本に残っていた印象は
「TVピープルがなんだか気持ち悪いなあ」
「後味がなんとも微妙だ」
「『眠り』がいちばん残った」
と、まあかなり微妙なものでした。
残念ながら、お目当ての「我らの時代のフォークロアー高度資本主義前史」は読んだ記憶がほとんど残っていなかったです。これは「ラオス〜」を読んでも、ちっともピンとこなくて無理はない。
久しぶりに読み返すと、年の功か、昔よりは読後感は悪くなかったです。
全体に共通して感じたことは、一見して共有していると思われる感覚の齟齬と、そこから生じる孤独感です。
個人的にはやっぱり「眠り」の印象が圧倒的に強いのだけれど、今回はやはり初志貫徹で「我らの時代のフォークロア」に焦点を絞りたいと思います。
「眠り」は確か別バージョンが出ていたので、それをまた再読して感想を書こう。
後日追記:「ねむり」の記事▽
「我らの時代のフォークロアー高度資本主義前史」感想
「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する五反田くんみたいなミスター・クリーンな「彼」と、主人公の「僕」が、(「ラオスにいったい何があるというんですか?」で)話題のルッカという中部イタリアの町で久しぶりに再会して、語り手である「彼」が聞き手である「僕」にある話をします。
「たぶん彼はずっと前から誰かにその話をしたかったのだと思う。でも誰にもできなかったのだ。そしてそれが中部イタリアの小さな町の感じの良いレストランでなかったら、そしてワインが芳醇な八三年のコルティブオーノでなく、暖炉に火が燃えていなかったら、その話は話されずに終わったかもしれない。
でも彼は話した。」(TVピープル P78)
彼と主人公は、高校時代の級友という以外に共通点はほとんどありません。性格も、職業も、生き方も、考え方も全然似ていません。そして、たぶんこのあと再会することもなさそう。
そういう特異的な状況だからこそ、話せることがある。
こころの奥底の、自分のいちばんデリケートな場所に置かれているそのような種類の話は、親しい友人や家族や、愛する人であっても容易には見せることができない。そういうものって、多かれ少なかれ誰にでもあると思います。
それはキラキラとした宝物とは限らない。ドロドロとした醜いものを含んでいるかもしれない。でも、それを含めて自分にとって捨て置けない大切な「何か」であったりします。
彼の話は、表題にもある通り、時代性というものが色濃く反映されています。
最後の主人公の一節
「僕は思うのだけれど、最初に断ったように、この話には教訓と呼べるようなものはない。でもこれは彼の身に起こった話であり、我々みんなの身に起こった話である。だから僕はその話を聞いてもおお笑いなんかできなかったし、今だってできないのだ」(P104)
主人公やそれを通しての作者の視点はわからないし、その時代のずっと後に生まれたわたしには時代性は想像するものでしかなく、なのでずれているかもしれませんが
”一見して共有していると思われる感覚の齟齬と、そこから生じる孤独感”というフィルターを通して見ると、普遍性がそこにはあるように思います。
「これは彼の身に起こった話であり、我々みんなの身に起こった話」なのです。
参考文献
ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集 村上春樹著 文藝春秋
ダンス・ダンス・ダンス(上・下) 村上春樹著 講談社文庫
ねむり 村上春樹 新潮社