カズオ・イシグロ特集の導入
カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読んでいます。
「2017年はカズオ・イシグロを読もう」と思って3冊くらい読んだところで止まって、忙しい日々にかまけていたらノーベル賞をとってしまったので(「今年はカズオ・イシグロの年だ」と言っていたらほんとうにそうなってしまった)、図書館の予約が一気に混み出しました。
ノーベル賞を取る前はすぐに手に入ったのに(ブツブツ)。
でもまあ、ノーベル賞を取ったお陰で、「そうだった、今年はカズオ・イシグロを読もうと思っていたんだ」と思い出したんだけど。
そんなわけで、わたしのカズオ・イシグロ歴は浅いです。まだ1年ちょっとです。
「充たされざる者」でやっと4冊目。まだまだ語れる域には来ていません。
でも、小さな積み重ねで自分のなかにほんの小さなカズオ・イシグロ像が浮かびつつあるので(まだ、霞みたいに朧げなものではあるけれど)、「充たされざる者」の感想を書く前に、過去に読んだ3作品の感想を見直すことにしました。
過去に読んだカズオ・イシグロ作品
「日の名残り」
「わたしを離さないで」
「わたしたちが孤児だったころ」
以前のブログに書いた記事に、手を入れ直したものになります。
「日の名残り」の感想
日の名残り カズオ イシグロ著 土屋政雄訳 ハヤカワepi文庫
はじめてのカズオ・イシグロです。
前から名前を聞いたことはあったのですが、手に取る勇気がありませんでした。でもせっかくだからと、「2017年は カズオ・イシグロを読もう」と思い立ちました。
カズオ・イシグロはなんとなく、カズオ・イシグロとフルネームで呼びたくなります。村上春樹だと春樹さんとか村上春樹さんとか、日本の小説家は割とさんづけをしたくなるのだけれど、なぜかカズオ・イシグロさんと呼ぶのは違和感があるのです。海外の小説家は、例えばドストエフスキーさんとか言うと、これまたなんだか奥歯になにか引っかかったような違和感がありませんか。でも日本の小説家はさん付けするほうが親しみやすいのです。これってわたしだけでしょうか。まあ、いいや。
以前NHKでダウントン・アビーという英国貴族のドラマを見ていたので、イメージがしやすかったです。視覚情報の効果って大きいですね。
特にすごくアクティヴな展開があるわけではないけれど、スティーブンスの真面目な(とっても生真面目な)執事としての品格のこだわり、主人への敬愛する思い、ミス・ケントンとのやりとり、そして道中のイギリスの情景。
どれもしみじみとこころに染み渡っていきます。
ミス・ケントンとの念願の再会シーンも、お互いの礼儀を重んじるなかになんとも言えない気持ちの交流があって、その控えめだけれど相手を尊重する感じがイギリスらしいなあと。(といえるほど、わたしはイギリスを知っているわけではないし、イギリスというとイギリスのどこを言っているんだという話も出てくるのでややこしくなるのですが、そこはまあおいておいて)
この、はっきりと言葉にされないけれど、交流されるやりとりって奥ゆかしくて嫌いじゃありません。余韻が残るやりとり。何のためにここまで遠路はるばるやって来たんだと言えばまあそうなんだけれど、なんでも詳らかにすれば良いとは限らない。
終盤の、スティーブンスに声をかけた男の言葉がとっても印象的でした。
「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」(日の名残り P350)
夕方をそんなふうに考えたことがあったかな。とても素朴で、でもとてもいいなと思います。
きっとそこには、スティーブンスのように、叶えられなかったり何か気持ちを残すものもあるかもしれません。
「名残り」の意味《広辞苑より一部抜粋》
①物事の過ぎ去った後、なおその気配や影響などの残ること。余韻。
②特に、人との別れを惜しむ気持。
日の名残りは、人生の夕方とも言えます。たそがれ時です。そういう気持ちを持ちながら、それでもなお、人生の夕方をそんなふうに感じられることは素敵なことです。