カズオ・イシグロ特集その2 「わたしを離さないで」

※以前のブログに書いた記事を手直ししたものになります。

 

わたしを離さないで カズオ イシグロ著 土屋政雄訳 ハヤカワepi文庫

 

カズオ・イシグロ2冊目は、「わたしを離さないで」です。

あとがきに、この物語の謎について書かれている。

イシグロ氏は、大学の教授に「ネタバラシOK」のお墨付きを与えたとのことだが、その教授は学生相手に本書の紹介をするときはやはり謎を明かせなかった、というエピソード。

確かに、この物語の中核である謎を知るのと知らないのでは、読んでいるときのなんだろう? のドキドキ感は全然ちがう。しかし、物語を語るときはこの謎がないと話にならない。

まるでミステリーみたいでしょう。

作品自体はミステリーではないけれど、少しずつ、ほんの少しずつ明かされていく謎は、この物語を読む醍醐味でもあるのです。

もし、この文章を読んで気になった方は、ぜひ本書を読んでほしい。できたらそのあとに、この続きを読んでもらえるとさらに嬉しい。この記事を最後まで読んでしまうと、謎が明かされてしまうから、謎が明かされる前に読むほうが絶対良い。

 

感想(ネタバレあり)

以下謎に触れる感想です。

この本を読み終わったときに、ふと思い出したのは、精神科医の成田善弘先生の『贈り物の心理学』という本でした。

『わたしを離さないで』は贈り物の物語だと思いました。

 

 

この本を読んだ方ならもうおわかりかと思いますが、「提供者」は臓器提供のドナーです。

原作を読んだことがないのでわからないのですが、「ドナー」と翻訳されていたらすぐにわかってしまうかも。日本語でドナーといえば、それは臓器提供のドナー以外ではほぼ使われませんから。

成田先生の『贈り物の心理学』にも、臓器提供の話が出てきます。臓器は人から人への贈り物です。

以前成田先生の本を読んだときに、臓器提供と贈り物の考え方がとても印象に残っていました。

ただ、本書に出てくるのは、意図的に臓器提供をするために“つくられた”存在である“提供者”。彼らは適齢になるまで(臓器提供ができるようになるまで)厳重に守られた閉鎖的な管理下のもとで育てられます。

移植される臓器は、医学的な“商品”です。

そこに心理的属性は含まれないように、移植されるレシピエントは、提供者ドナーの情報を知らされないことが前提。しかし、臓器移植は、移植する側も、される側にも心理的作用を与える。

『生きるとは他の生命からの命の贈り物を普段に受け取るということなのであろう。』(贈り物の心理学 第Ⅳ章 臓器移植P160) 

ものすごくおこがましい考え方をすれば、キャシーたちは提供者というかたちで、これまでの人と違った命の贈り物をしているのかもしれない。

『移植はドナーの一部である移植臓器を、つまりレシピエントにとっては非自己である移植臓器を自己の内に受け入れ、自己に統合するという課題を含んでいる。レシピエントはその意味でも自己同一性の問題に直面することになる。』(贈り物の心理学 第Ⅳ章 臓器移植P161) 

そして、物語には描かれないが、提供される側のレシピエントが、提供者の命を受け継いでいくのかもしれない。

そのときに、ヘールシャムのような施設で育った提供者か、もっと劣悪なホームで育った提供者かで違いが出てくるのかはわからないけれど、レシピエントに贈り物を受け取る意識があるかは知るところではないが、否応無しに引き継がれていく。

終盤にマダムとエミリー先生によって多くの事実が語られます。ヘールシャムで行われていた“作品づくり”の意味。そして無残な現実。

彼らが生きている意味はなんだったのだろうと考えさせられます。

しかし、そんなことを言い出すと、生きる意味なんて考えながら生きている人なんかどれくらいいるんだろうか、とか変な袋小路に陥ってしまいそう。

贈り物といえば、トミーからキャシーへ贈られた『わたしを離さないで』のテープは、キャシーの魂の揺さぶる象徴的な存在です。

同じものでなかった、というのは重要なことではないでしょう。

エミリー先生の感じたことと、キャシーの思っていたことはずれていたけれど、それは大きな問題ではないのかもしれない。

なんというか、うまく言えないのですけれど、『わたしを離さないで』のタイトルはとっても言い得て妙だなと思うのです。

それはキャシーにとって魂の揺さぶる象徴的な存在で、トミーからキャシーへの贈り物で、提供者である彼らが、文字通り身体の一部を切り取った贈り物として「わたしを離さないで」と言っているようです。

多層的な意味合いで、これは贈り物の物語だと思いました。

 

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