3月ももう終わりです。
1月の後半から、2日に1回のブログ更新を続けてきました。
4月から、その流れを変えることにしました。枠組みを決めて、それ以外は適宜更新にします。
具体的にいうと、水・土を定期更新の日に戻します。HSPと本、スイーツ等、ときどきオムライスのラインナップです。
でも、たまに違う記事も書きたくなるので、そういうときは、水・土以外の曜日に更新します。
今回はそれに至ったプロセスを記事にしました。
2日に1回更新を続けて出てきたこと
更新がしんどくなってきた
よくブログは毎日更新したほうが良いという意見を見るし、人によっては1日に数回更新される人もいます。
量を書くことで、見えてくるものがあるし、量が増えるほど、見てくれる人も増える確率が高くなる。量はいずれ質にも転換されていく。
それはまあわかるんだけれど、わたしは仕事をしながら毎日更新は無理なので、2日に1回を頑張ってきたわけです。
わたしにしては、よく続いたほうだ。そして、やってみて良かったと思う部分もある。一方で、しんどくもなってきた。
実は、けっこう自転車操業で、平日は通勤中の電車のなかで記事の下書きをして、夜にパソコンで作業をするということもけっこうしていた。
今は割と時間を取れるほうで、それでいてこの状態。2ヶ月半続けたけど、これをずっと続けるか、続けられるか、疑問にも思っていた。
あれです、わたしはお菓子づくりの記事でも書いたけど、「やりたいこと」がそのうち重荷になってきて、「しなければならないこと」カテゴリに入ることが多々あるのです。
まずい、これはそのパターンになりつつある……
改めてブログの方向性も見えてきた
この2ヶ月半で、僻地ブログながら、アクセスが少し伸びました。ありがたいです。
やっと月間1000PVが達成されたのです。ありがとうございます。
日々のアクセスを見ていると、やっぱり読まれる記事の傾向というのは出てきます。
こちらが熱量をかけて(つまり時間と労力をかけて)書いた記事が必ずしも読まれているとは限らない。
けっこういろんな記事を投稿してきたんだけど、そろそろ方向性を見直しても良いかなと思いました。まあ、簡単にいうと初心に戻ることになるんだけど。
フェルメール展でフェルメールに学んだこと
先日、フェルメール展に行った記事を書きました。
フェルメールの作品を見ながら考えたことがあります。
フェルメールって非常に寡作な、稀有な画家です。
現存する作品数が少ないこと、評価が見直されるまでに時間がかかったこと(これも作品数が少ないことに影響を受けている)は、ある意味で画家にとって致命的ともいえる。ゆえにフェルメールは生前、金銭面で非常に苦労しています。
量をこなすこと
例えばピカソは、生涯に約15万点の作品を手がけたと言われています。
天才はやっぱり違う。
何かを成し遂げるときに、やはり努力は必要。
努力のわかりやすいものは、そこにかけた時間、量で測れるもの。
天才は1%の才能と99%の努力でできていると言われるように、かけている量も半端ないのです。ある意味では、その量をこなせるからこそ天才なのかもしれない。
だから、量をこなすということは、あらゆる意味において定石となりうるのです。
もちろん量をこなしたからといって、必ず成功するとは限らない。
でも、それは必要条件ではある。
だから、フェルメールみたいな、量をこなさない天才は、非常に稀です。
現存する作品が少ないだけで、未発見の作品とか、名声が出る前に埋もれてしまった作品もあるかもしれないけれど、それにしたって数が少ない。
でも、数が少ないからこそ、あの1枚に凝縮されたエネルギーをわたしたちはひしひしと感じることができるのです。
精巧な計算され尽くしたあの絵に、魅了される人がたくさんいるのでしょう。
量を求めることは、ときに危険でもある
わたしは天才とは程遠いし、世間一般の人よりもできることが少ないです。
量を求められることは、わたしにとって重荷です。その重みに、押しつぶされてボロボロになってしまいます。
以前のわたしは、「いやいや、それがこなせてこそ一人前だ」と自分に鞭打って言い聞かせて、でもそうできない自分に失望する日々を何度も繰り返していました。
このパターンは何度も繰り返していて、いまも完全に抜け切れているわけではないのです。
でも、自分にできないこと、合わないことを無理強いしてやっても、効果はそんなに出ないんだよね。むしろデメリットのほうが大きくなる。心身が蝕まれるというデメリットです。
もちろん量をこなすことは大事なんだけど、それはさ、別に生きるための必要条件じゃない。
場合によっては、優先されることは他にあるんじゃないかな。
再びフェルメールに戻って
くどいようだが、わたしはフェルメールみたいな天才じゃない。
でも、例えばピカソかフェルメールかと問われれば、わたしはフェルメールを推したい。
(これは、画風とか時代とか関係なく、単純に作品数の対比です。圧倒的数でピカソに勝る天才はいないと思う)
これは、フェルメールの画風、一枚に込められた熱量、量より質を重んじること、そういうのが、わたしにとってはこころ惹かれることで、同時に、わたしもフェルメールの絵のように生きたいと思ったのです。(フェルメールのように、じゃありませんよ。フェルメールの絵のように、です)
そう思ったときに、最初に戻るんですが、「あ、もうブログは量にこだわらなくていいな」と思いました。
2日に1回とか、更新頻度にこだわらなくていいやとストンと思いました。
量をこなすことを否定するわけではない
これは、わたしがわたしのなかで出てきた考えであって、その背景には「量をこなさなければダメだ」という強迫的な考えがずーっとあったからです。
言い換えると、「努力をしていない自分はダメだ」と思って、頑張りすぎていたのです。これまで。
(人のメンタルのむずかしいところなんだけど、自分では「全然頑張ったうちに入らない。努力が足りない」とも思っているんです。いくらやっても、達成されない完璧主義)
量をこなすことそれ自体を否定しているわけではありません。
でも、それはどうも自分のなかでは「違うこと」のようだから、ちょっと一旦やめてみようと思ったのです。
長年染み付いてしまった思考の癖は、こうやっていちいち書いて宣言していくことで少しずつ修正されていく。だからあえて書いている。
ブログの記事も、書きたいなと思うときは、どんどん書いてもOKと思っています。自ずからやりたいと思うときは、その欲求に従ってもいい。それは自分にとって自然な気持ちだから。
量をこなすことが、例えばブログを毎日更新することが苦になっていない人は、やっていけばいいのです。
大事なのは、「〜ねばならない」に縛られるのではなくて、その人の適量を見つけること。
そもそも世の中には、こうやってブログを書くことをしたいと思わない人だっていっぱいいるんだ。
そういう人にとっては、ブログを書くこと自体が苦行になるでしょう。
でもわたしは文章を書くのは嫌いではない。仕事にしたいほどではないけれど、でも書くことは楽しい。
結び
つらつらと書き連ねてみましたが、ブログの更新頻度はひとつの名目であって、これは最近のわたしの生き方そのものに通じるところでもあります。
最近読んだ本が、今わたしの悩んでいることに的中していて、示唆を与えてくれました。
4月から、私生活が少し変化します。
その変化にこの数ヶ月ほんとうに悩んで、自分のなかで何度も葛藤して、周りからの理解も得られなくて、でも今の自分にはやっぱり必要なことなんだなと最近やっと腹を据えました。
以前の自分だったら、「それは逃げだ」とか「甘えている」と思ったことを、でもそれはどうも「違うこと」ではないらしいと、やっと思うことができてきたのです。(長年の癖は早々に抜けないので、時々反動が来ます。でもその反動も、だいぶおさまってきている)
そのことについて、ブログで触れるかな? プライベートに関わることなので、まだわかりません。
でも、ひとまず。4月から、またよろしくお願いします。
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。