「天気の子」2回目観てきましたよ。さらに考察してみます。
わたしが映画をリピートするなんて、「タイタニック」と「もののけ姫」以来だ!
(ちなみに「タイタニック」は3回、「もののけ姫」は2回観に行きました。両方とも、そのうち1回は学校行事だったんだけど)
▽ちなみに、「天気の子」1回目の感想です。
IMAXで観ました
前回はふつうの映画館で観たんですが、今回はIMAXのある映画館に行きました。
IMAXとは、『高さ約18メートル、横幅約26メートルの超巨大スクリーンに、4Kツインレーザープロジェクターによる鮮明な映像、12chサウンドシステムが生み出す驚異の臨場感』(引用)が味わえる映画でもちょっとスペシャルなやつです。
▽詳しくはこちら
お値段もふつうの映画よりちょっとお高めなのですが、今回は奮発しました!
スクリーンも大きくなって、音も映像も豪華になって、リッチに楽しみましたー
賛否両論な映画~新海監督のインタビューも踏まえつつ~
わたしはあまり映画のレビューとか、評判とか、制作者のコメントとかあんまり気にしないので、「天気の子」がどういう評判かとかは特に気にしていませんでした。
あんまり外の声を拾いすぎると、騒音がうるさくなるから。
ネットで新海監督のインタビュー記事を読んで、「ああ、そうか。これはやっぱり賛否両論のある映画なんだ」ということを改めて知りました。
邦画歴代2位の興行収入250.3億円をたたき出し、社会現象となった大ヒット映画「君の名は。」から3年。新海誠監督(46…
わたしも、初めて観たときに「これは下手をすると批判も出るのでは……」とぞわぞわと感じたのです。
だからこそ、初見の感想にはそこに対する意見も書きました。
例えば、帆高の行動は、明らかにあれを現実にやると犯罪者です。須賀さんもやばいよ。夏実さんだって。警察に盾突くのは、本気でやめといたほうが良い。
でも、なんかなあ、それこそ思うツボだったんだろうなあと思いました。
そうやって、ぞわぞわと感じる危機感とか「そこまで描いちゃやばいだろう」と思ってしまうことそれ自体が、いかに自分が普段窮屈な世界に身を置いているか(それも無自覚に)、2回目を観て気づいたからです。
あえて「物語と現実を混同しないでほしい」と書くこと自体、自分がそういう風に感じていることの表れなんですよね。
世界に対してNOと言うこと
例えば、これが日本の東京の、現代でない架空の世界だったら、ここまでの既視感は起きないんだろうなあと思う。
「君の名は。」は、まだ岐阜と東京が舞台だったけど、「天気の子」はほぼ東京が舞台。それこそ東京に住んでいる人は、日常的に目にする場所に、登場人物たちが動いている。
その錯覚が、いろいろな思いを引き起こすのかもしれない。
でも、同時に、その錯覚こそ大事なのかもしれないと思うのです。
これは、遠い世界に住む架空の世界の人のお話ではなくて、もっと近い次元にあるからこそ、身近に感じるし、自分たちの日常にいろいろなものを落としていく。揺さぶっていく。
賛否両論は、あって良いのです。
むしろ、全員が絶賛するほうがそら恐ろしい。
いろいろな人のいろいろな意見があって、それを言うことが許される世界。
帆高や陽菜は、自分たちの生きる世界に、大人たちが与える世界に「NO」を突きつけます。それは世界のあり方を変えてしまうほどのレベルで。
でも、そこで「NO」と言えることって、ものすごく意味のあることなんだろうなと思う。
世界を社会を優先させるのではなくて、自分にとって「なにか」を選ぶ。
自己中心的と罵られるかもしれないけれど、この辺は紙一重だと思う。
単純に自己中と言いたくないのは、帆高は自分の選んだ選択に責任を感じているし(むしろ周囲の大人のほうが大人だ)、自分でそうやって変わった世界を引き受けている。引き受けようとしている。
もちろん家出はよくないし、未成年である彼らは正当な場で保護されるべき身分です。(ほら、こういう意見こそこそリアルを錯覚すること)
でもそうやって自分のなかのなにかを押し殺して、息のしづらさを感じながらもやもやと生きるのと、自分で選んだ生き方をしていくのって、全然違う。
基本構造は「君の名は。」と同じ
舞台も設定も全然違うんだけど、「天気の子」も「君の名は。」と基本構造は同じだなと思いました。
つまり、誰かのために、世の中の理(ことわり)を変えてしまうレベルで介入すること。
「君の名は。」では、糸守の町で多くの人が助かり、三葉と瀧が過去に出会わない(組紐の受け渡しが起こらない)時空の歪みが起こっている。
「天気の子」では、雨が止まなくなり、東京の街は水に沈む。
後者は影響がとてもわかりやすいかたちで出ているけど、前者だって未来を変えちゃっているんだから、いろいろやばいです。地球が滅びるレベルのことをしているかもしれない。瀧と三葉は気づいてないけど、それによって生死に関わるほど運命が変わっちゃった人だっているかもしれない。
そして、そこのキーが「誰かひとりのために」っていう超個人的な願望です。
今回わたしは初めて知ったんだけど、新海監督の作品が「セカイ系」と呼ばれる所以です。
(セカイ系については、わたしはまだよく把握していないので、今回は言及は控えます)
帆高の選択
帆高の選択が良かったのかどうかとか言われると、わからないです。
まあ、物語的にはそこで陽菜ちゃんを諦めちゃったら男がすたるけど。彼は結果ものすごく罪の意識を背負って生きていかざるを得なくなる。だから息をひそめるように島では残りの高校生活を送っている。
そもそも、帆高がなんで家出をしてきたのかは、詳しくは描かれていません。「ご想像にお任せします」というスタンスです。
(「君の名は。」でもそうだったけど、新海監督の作品はそういうのあります。それって悪くないと思う。描きすぎるのが、必ずしも良いとは限らない)
東京行きの船で、彼は顔に絆創膏をいっぱい貼っていて、雨到来になぜか歓喜していて、サリンジャーの「キャッチャ・イン・ザ・ライ」をわざわざ荷物のなかに持ってきている。
「なにが」というのは語られていないけど、彼は、息がしづらいほど生きづらかったんだろうな。
根は悪い子じゃないけど、でも、世界に自分の居場所を感じれなくなるほどに、自分の生きる世界が嫌いだったかもしれない。子どもの甘えた戯言と大人はいうかもしれないけれど、子どもにとってそれって切実です。
そして、帆高はちょっと高校生の16歳だから早いけど、そういう人にとって東京って「無名性」を持って生きていけるから、ある意味ラクなんだ。紛れることができるし、余計なことを考えないで済む。
その帆高が、陽菜ちゃんに会って、息がしやすくなった。
彼女のつくる晴れに、誰よりも癒されたのは、帆高自身です。
現代という時代に生きている
「昔は良かった」って言葉は、何と無くやっぱり嫌です。
昔は昔で苦労があったし、生きづらさもあった。
今の時代には今の苦労があるし、生きづらさもある。
逆に喜びも、楽しみも。哀しみも、怒りも。
昔の時代を知らない世代は、この時代を生きていくしかないのです。
もちろん歴史などで昔を知ることは大事。
でも、壊れかけていても、私たちはそこで生きていく。
ある意味たくましく。なんとかやっていくものです。
(だから好き勝手なんでもやっていいということでもなくて、そこの加減(ニュアンス)がむずかしいんだけど)
結び
うーん、熱量は高いんだけど、まだやっぱりうまくまとまらないなあ。
一旦熱を冷まして、またそのうち考察してみたいと思います!
関連情報
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▽前作「君の名は。」
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▽帆高くんが持っていた本
キャッチャー・イン・ザ・ライ
J.D.サリンジャー 村上春樹訳
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キャッチャー・イン・ザ・ライ J.D.サリンジャー 村上春樹訳 サリンジャーの有名な著作。 「ライ麦畑でつかまえて」…
▽「天気の子」1回目の感想