数学は創造的な活動である『計算する生命』森田真生

人から「面白いよ」と勧められて読んでみました。

 

※引用部分の太字は、本文で傍点だった箇所です。

 

感想

人生で数学が得意だったことが一度もない私なので、なかなか本書の面白みを掴むことはむずかしいのですが(数学が好きな人が読むときっともっと違う視点で面白いと思う!)

逆に言うと、数学が苦手な人にこそ読んでほしい。

数学に対する見方が180°変わりますよ。

 

*        *        *

 

今回も3つのテーマで分けてみました。

  • 意味がわからなくても付き合い続ける(操る)こと
  • 数学が現実を拡張する、創造的な活動
  • 「計算する生命」 計算は極めて人間的な行為

 

拙い感想で、わたしにどこまで本書の面白さが伝えられるか懐疑的ですが、よかったらお付き合いくださいませー

 

意味がわからなくても付き合い続ける(操る)こと

数学(算数)が苦手な人ってよくこう言いません?

「それって意味あるの?」

「数学ができなくても生きていけるし」

「公式を暗記するの面倒くさい(意味わかんないし)」

 

えーと、わたしもちょっと思っていました。

特に公式。もうわけわかんない。

 

「いちまいなすたんたんぶんのたんぷらすたん」って覚えても、それで三角関数ができるわけでもなく。

 

でも大丈夫です(?)

現代に生きるわたしたちよりも、先人たちはもっと長い時間(それこそ人の寿命を超えて!)意味がわからないまま計算(操る)してたそうですよ。

 

意味を「わかる」ことと、規則に従って記号を正しく「操る」こと、計算にはこの両面があり、両者は背中合わせの関係にある。だが、いつもピタリと重なり合っているのではなく、しばしばズレが生じる。

(P52 第一章 「わかる」と「操る」)

 

虚数の計算の意味が「わかる」までには、その後何百年もの歳月がかかった。意味のまだない操作と辛抱強く付き合い続ける時間の果てに、少しずつ「意味」が「操作」に追いついていったのだ。

(P52 第一章 「わかる」と「操る」)

 

 

大人になってからやっとわかったことだけど、学生の頃に習ったことって、最初はとりあえずひたすら詰め込むんですよね。(世代の差はある)

だから、その背景とか意味とか実はよくわかっていなくても、覚えるのが得意な人はテストで良い点をとれたりする。(覚えるのが苦手なわたしはまあひどいもんでしたよ……

 

昔に習ったことが、やっと繋がってくるのって、20代、30代と歳を重ねてきてやっとだという気がします。(※あくまで個人の実感です

あのときしてきた勉強が日常生活に実はとても役に立つことがわかるのって(わかりにくいかたちで)、ずっと後なんだろうと思います。

 

もちろん、日常に直結して学びに変える方法もあるし、なんにでも一長一短ある。

でも、10代までに習うことに、そんなに意味を求めなくてもいいのかなあと最近になって思うようになりました。

そのときわからなくても、意味はあとから追いついてくる。

 

虚数なんて数百年レベルだよ(笑

 

数学が現実を拡張する、創造的な活動

意味を求める(意味がわかる)ことをとりあえず脇に置いておいて、意味づけが不明確なままとりあえず付き合い続けること。

 

そうすると長い時間をかけて、意味が浮かび上がってくる。

それはこれまでなかった未知の概念を生み出していくこと。

現実の拡張、「創造的な活動」なのです。

 

数学はただ規則に従うことでも、ただ意味に安住することでもない。意味解釈を一時停止させ、規則に身を委ねる。そうすることで、人間の認識は徐々に拡張されてきた。だが、規則に服従しているだけでは、意味の世界は開かれてこない。意味がまだないまま、とにかく規則と付き合ってみる。未知の対象を「無意味」と決めつけるのでもなく、かといって既知の意味に無理に還元するのでもなく、不可解なものとして不可解なまま、粘り強く付き合い続ける時間のなかで、新たな意味が浮かび上がってくるのだ。

(P52 第一章 「わかる」と「操る」)

 

数学は、単に与えられた概念から出発して推論を重ねていくだけの営みではないのだ。人は、既知の概念に潜む仮説性を暴き、そこから新たな概念を形成できる。数学はただ厳密で確実な認識を生むだけではなく、誰も知らなかった未知の概念を生み出していくことができるという意味で、きわめて創造的な活動なのである。

(P99 第二章 ユークリッド、デカルト、リーマン)

 

現代の「計算」の概念もまた、分析と総合の繰り返しのはてに形成された知的探求の果実だ。古代ギリシアの数学、算用数字と筆算、デカルトの代数幾何学、カントの理性批判、リーマンの概念形成、フレーゲの論理学……。このどれが欠けても、いまと同じ「計算」の概念はなかっただろう。「計算」とは、与えられたものではなく、創造されたものなのである。

(P194 第四章 計算する生命)

 

いま、わたしたちが学校で習っている数学は、そうやって先人たちが非常に長いときをかけて築き上げてきた創造の過程でもあるのです。

(ちなみに、これは数学だけでなくていろんなことにも通じます)

 

そう考えると、学校で習うことって数百年単位で築き上げてきた先人の知恵をギュッとコンパクトにフルパッケージにした感じで、しかもそれがわかりやすく整理されていて、実はめちゃくちゃお得なんじゃないかと思っちゃいます。

 

わかっているはずのことを、厳密に摑み直していこうとするとき、その過程で何をわかっていなかったかが浮き彫りになる。漠然と何かを信じる代わりに、自分が何を信じてしまっていたかを明らかにしていくこと。創造の道は、ここから開ける。

(P144 第三章 数がつくった言語)

 

「わかった」って、思っていても実はわかっていないかもしれない。

一見無駄なことのように見えることの積み重ねで、浮かび上がってくるもの。

そこから創造性が開けていく。

 

「計算する生命」 計算は極めて人間的な行為

そういう先人たちの知恵が、簡単に言うと、現代のコンピューターやAIの発展に繋がっていった。

いまわたしたちが当たり前のようにスマホを操作するのも、もとをたどれば指を使った足し算などから始まったのです。

 

当たり前に使っている算用数字(アラビア数字)が、計算することにいかに画期的な発明(創造)だったか、ゼロという数字(概念)の発見がなかったら、現代の世界はまだなかったでしょう。

 

人工知能と、人工生命研究者たちの対比で。

人工知能が、問題を解くために理想化された「清潔」な空間で正確な計算を積み重ねていくとすれば、人工生命研究者たちはむしろ、「猥雑(messy)」かつ「雑音まみれ(noisy)」な環境に、身体ごと放り込まれた生命のあり方に迫ろうとしている。

(P197 第四章 計算する生命)

 

肝心なのは、二つの立場の対立ではない。規則に従って緻密な思考を組み立てるのも、散らかっている不都合な環境にまみれて生き延びようとするのも、どちらも人間の本当の姿だからだ。人は、破ることのできる規則に従う理性的な存在であると同時に、混沌とした世界の濁流に巻き込まれた生命の一員でもある。

(P197 第四章 計算する生命)

 

数学や計算は、どこか無機質な冷たい印象を持つ人も少なくないかもしれません。

国語や社会には人の血の通ったにおいがするけれど、数字や記号で彩られた数学は人から遠いように一見見えます。

 

でも、実は極めて人間くさいんだよ、と。

 

すべてを見通す高みからの視野という幻想から解き放たれるとき、一つの尺度に基づく「正しさ」や「確実さ」と競い合うのとは別の道の可能性が開ける。清潔で純粋な世界に引きこもろうとするのではなく、不気味な他者とも波長を合わせながら、新たな現実へと完成をなじませていくのだ。

(P209 終章 計算と生命の雑種)

 

まさか計算の話から、そんな泥臭い話が出てくるとは思いもよりませんでした。

でも、本書をずっと読んで、いろんな先人たちの飽くなき探究を一緒に眺めてきた読者なら頷けるのではないでしょうか。

 

人はみな、計算の結果を生み出すだけの機械ではない。かといって、与えられた意味に安住するだけの生き物でもない。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である。

(P220 終章 計算と生命の雑種)

 

現代はものすごい速さでテクノロジーが進んでいて、AIは日常の至るところに入り込んでいる。

きっと100年後には現在の仕事の多くがAIにとって変わられるだろうとも言われています。

 

でも、人が人たらしめるところは、きっとAIにはないところである。

 

先人が虚数の意味を解明したように、アインシュタインが相対性理論を提唱したように、きっと現代にもまだ「わかる」にならないまま「操る」ことがあって、長い時間をかけてまた未知のことが拡張、創造されていくのだろうと信じています。

 

わたしたちは、その長くて果てしないバトンをつなぐ一端なのだろうなと思いました。

 

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