サリンジャーの有名な著作。
「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルで目にした方も多いのではないでしょうか。
今回紹介するのは村上春樹さんの翻訳バージョンです。
はじめに
わたしは今回、サリンジャーの著作をはじめて読みました。
そう、村上春樹さんが翻訳している本だから読んだのです。
だから、「ライ麦畑でつかまえて」も読んだことはないし(耳にしたことはある)
サリンジャーがどんな作家なのかも全然よく知りません。
アメリカの有名な作家だとかろうじて知っている程度です。
なんとも罰当たりです。すみません。
最初に謝っておきます。
そんなわけで、こちらはサリンジャーのファンの方が読まれると(そんな方がこんな辺境ブログに来るかは別として)、とても見当違いのことを言っているかもしれません。
何事にも初心者はいるものです。
温かい目で先を読み進めるか、ページを閉じて回れ右してください。
というわけで率直な初心者の感想
サリンジャーは名前は聞いたことはあっても、どんな作品を手がけるかは知りません。
読んでいる間中、「うーん、これは自分だったら手に取らなかったかもしれない」と何度も思いました。
でも、どんなところから読書の世界が開けるかはわからないものです。
とにかく最後まで読み進めました。
途中何度も主人公の言動に首を傾げましたが、最後まで読むとなかなか味わい深かったです。
でも、先入観を持つといけないので、ほかの方の感想(例えばAmazonのレビューとか) は読まずに、まずはまっさらな気持ちで感想を書いています。
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これは、主人公(ホールデン)の一人称による語りの小説です。
主人公は、なんとも情けない10代の若者です。特に華々しさなんてない。
だから「これはどう受け取ったら良いのだろう」とずっと考えながら読んでいました。
一人称の小説自体がめずらしいわけではないけれど。
例えば、村上春樹さんの初期の作品は一人称が多い。
でも、なんていうのかな。これはほんとうに、主人公の視点というか、内的な世界がクローズアップされている。こころの声が駄々聞こえなのです。
そして、起こっている出来事そのものよりも、主人公のこころの声(一人称語り)によって、主人公の人となりや、微妙なこころの揺れ動きが表現されている。
10代の、ちょっと粗野で繊細な若者の姿が、ものすごく細やかに浮かび上がってくる。
それは、例えば自分のなかに思いがあって、でもそれに蓋をするように誤魔化すことをいっぱい並び立てて、虚栄を張ったり相手を見下したりすることで、自分で見ないようにしているところまで描かれているのです。
わたしはアメリカの10代の男の子からは程遠いんだけど、ああ、きっとこういうこころの世界を持っているんだろうなあというのが、体感で伝わってくる。(時代性を考慮しつつ、そこには普遍性もある)
そうすると、えらく格好悪くてどうしようもない落ちこぼれのホールデンという主人公が、不思議と親しみが湧いてくるようになるのです。
キャッチャー・イン・ザ・ライ
タイトルにもなった「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、ロバート・バーンズというスコットランドの詩人の作品だそうです。
妹のフィービーとのやりとりのなかで、このタイトルになっている詩のことが触れられています。
タイトルってのはやはりものすごく意味があるんですよね。
このやりとりがあるから、作品の核になる部分がすごくここに凝縮されてパリッと引き締まっている感じがする。
主人公は「ライ麦畑でつかまえる人(キャッチャー)」になりたいとフィービーに話します。
これは比喩です。
でも、このやりとりがすごく良い。
確かにかなりへんてこな喩えです。あなたそれよりもやることあるでしょうと突っ込まれても仕方ありません。
世の中には、もっと具体的で、現実的なことが求められている。
例えば彼らの父親のような「弁護士になりたい」とかね。
でも、主人公はそういうのは嫌で、小さな子どもたちがいっぱいいるライ麦畑で、落っこちそうな子どもがいたら、キャッチしてあげるような人になりたいと言うのです。
夢見がちですか。でも、なんだかとっても良い喩えだなあと思いました。
そして、そこには、どうしようもない主人公の、ひととなりが表されている。
結び
サリンジャーファンにはなんとも申し訳ないレベルの感想ですが、わたしは読んでみて良かったなあと思います。
新しい本を読むと、新しい出会いがあります。
読んでいるとき、読み終わったときよりも、こうやって振り返って感想を書く段階で余韻があとからやってきます。
じわじわと押し寄せる。
すごいな、サリンジャー。
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