凪良さんの本、これで3冊目(「私の美しい庭」「流浪の月」)になります。
2023年本屋大賞を受賞されたそうで、話題になっていてずっと気になっていました。
やっとやっと読めて、そしてあっという間に読んでしまいました。
※ネタバレがあります。未読の方はご注意ください。
※この感想は、「私の美しい庭」「流浪の月」を読んだことを前提に書いています。(もちろん読んだことがなくても大丈夫です)
簡単なあらすじ
「飲んでるの?」
瀬戸内の島に住む暁海(あきみ)は、同じ高校に通う櫂に話しかける。
昨年京都からやってきた青埜櫂(あおのかい)は、島では異色の存在。
男を追いかけて島にやってきた櫂の母親は、島で唯一のスナックをやっている。
なんであんな真面目そうな子に、酒の匂いがわかったんだろう。
井上暁海の父親は、浮気をして家を出て行った。
島のみんなが知っている。この島で隠し事はできない。
父が浮気して心を病んだ暁海の母親。
未来を夢見て自由を願う一方で、親のことも見放せない。
そんな二人が出会い、別れ、また出会う。
感想
「私の美しい庭」でも思いましたが、心を病んだ人を書かせると、なんて鋭くヴィヴィッドに浮かび上がらせる作家さんなのだろうと思いました。
とにかく逃げない。真正面から切り込む。美談にしない。
*
そのほかにも、現代を取り巻くいろいろなテーマが散りばめられています。
中核はもちろん暁海と櫂のストーリーなのだけれど、周辺の人(北原先生とか尚人くんとか)を切り取ってもそれだけで本が一冊できるんじゃないかなというほど。
きっと読んだ人の数だけ(それこそ星のように)感じたことは多種多様にあるのではないかと思います。
とりあえずわたしはわたしなりに3つのテーマで感想を書いてみました。
まとまりがないのですが(汗)、よかったらお付き合いくださいませ。
《今回のお品書き》
- わたしがわたしの人生を選ぶ
- 「良い子」である子どもたち
- 自由という厳しさについて
わたしのわたしの人生を選ぶ
「流浪の月」や「わたしの美しい庭」でも描かれていましたが
周りに理解されなくても、私たちは私たちの大切なものを選んで生きる
凪海さんの物語には、どこか一本気に共通のテーマがあるような気がします。
(この3作品しかまだ読んでいないので、あくまでここまででのわたしの感触です)
そして、令和になってもどこか同調圧力があって生きづらいような気がするこの国で、そういう凪良さんの物語は多くの人に刺さる(言葉を変えると心を掴む)のではないかなと思います。
「自分の人生を生きることを、他の誰かに許されたいの?」
島のみんな。世間の目。でもその人たちに許されたとして、わたしは一体——。
「誰かに遠慮して大事なことを諦めたら、あとで後悔するかもしれないわよ。そのとき、その誰かのせいにしてしまうかもしれない。でもわたしの経験からすると、誰のせいにしても納得できないし救われないの。誰もあなたの人生の責任を取ってくれない」
(第一章 潮騒)
瞳子さん、北原先生と、すでに人生の先輩ふたりはこれを実践している。
ある意味でもう迷うことをやめたこのおふたりは、潔くたくましい。
でも実際は、そう簡単に割り切れないことのほうがずっとずっと多いのだと思う。
瞳子さんと北原先生には、暁海と櫂があんなに切り離せない「親」の影がまったく感じられない。
(邪推ですが、きっとこのふたりがここまでの境地に達するまでに、自分たちの親とは絶縁するくらいの修羅場があったかもしれません……知らんけど)
いやいや、親でなくても、世間という目もあります。
瞳子さんと北原先生のふたりとも、島と縁もゆかりもないところからの移住者である事実を見ると、彼らは「世間」という目からも逃れてきたのでしょうね。
おそらく彼らも自分たちの大切なものを優先させるために、たくさんのものを手放したのでしょう。
それは、決して生やさしいことではありません。
この物語の主人公のひとりである暁海は、一見すると不器用で責任感が強いのだけれど、自ら縛っている鎖にも目を向けてもいる。
手放したからといって容易に楽になるわけでもないパラドックスを理解している。
次に続きます。
「良い子」である子どもたち
この物語では、暁海も、櫂も、母親を切り離せません。
もういいよ。あなたたちは十分がんばった。自分たちの幸せに目を向けてもいいんだよ。
そう言いたくなる。何度も。
彼らの母親も、ある意味では弱い存在です。
それぞれの弱さは違うのだけれど、子どもに寄りかからないと生きていけないのは共通している。
(暁海の母親は、終盤自分で生きていく場所を見つけることができましたが、北原先生の助力があったからこそで、暁海と母の二人きりのままだとあの状況から抜け出すのは厳しかっただろうな)
たらればの話ですが、暁海の家は、父親が浮気をしなければ母はあそこまで崩れなかっただろうと思います。
また、櫂の家も、父親がしっかりとした人で健在であれば、あそこまで母の面倒を見る事態は防げただろうな。
そうするとふたりは出会わなかったので、本末転倒ですが。
男性の存在によって振り回されるという点では、どちらの母もやはり共通している。
そして、良くも悪くも自立できないのは、お金の問題が重なり、そこを克服している瞳子さんはやはり強いし、強く生きざるをえなかった女性なんだろうな。
瞳子さんには、彼女たちのように頼れる我が子はいなかったのです。
*
きっとこれがひと昔前なら、暁海と櫂は駆け落ち同然で島を出て、東京の安アパートで質素な貧乏暮らしをするんだろうな(昭和か)
でも、彼らは自分たちの親を最後まで見放さない。
櫂も、暁海も、それぞれの覚悟で母親を背負っている。
それは、なんて重い荷物なのだろう。
瞳子さんは「良い子ね」と、褒め言葉でなくそれぞれに言っています。
切り離せたらどんなに楽だろう。
そう考えたことがなかったといえば、きっと嘘になるでしょう。
わかっているけれど、切り離せない。
考えすぎと言われるだろうか。けれどそれが紛れもないわたしの現実だった。生きるとは、なんて恐ろしいことだろう。先が見えない深い闇の中に、あらゆるお化けがひそんでいる。仕事、結婚、出産、老い、金。闘う術のないわたしは目を塞いでしゃがみ込むしかない。
(第三章 海淵)
手ぶらで生まれる子供と、両手に荷物をぶらさげて生まれる子供がいる。自分を助けてくれる親か、自分の足を引っ張る親か。自分は免れていても、尚人のようにパートナーが荷物を持っていることもある。できるなら、みな身軽で生きていきたい。
(第二章 波蝕)
「良い子」であることを手放せばいい。
でも、簡単に切り離せないからむずかしい。
きっと切り離しても、そうでなくても、どちらでも後悔はどこかにつきまとう。
暁海も櫂も、最後まで親を見捨てず「良い子」でえらかったね、とはとても言えない。
そもそも彼らは「良い子」でいようと思ってしたわけではない。
どうするかは、その人の選択です。なんて厳しい選択だろうと思います。
自由という厳しさについて
「ねえ暁海ちゃん、いざっていうとときは、誰になんて言われようと好きなことをしなさいね。怖いのは、えいって飛び越えるその一瞬だけよ。飛び越えたら、あとはもう自由なの」
(第二章 波蝕)
「人は群れで暮らす動物です。だからなにかに属さないといけない。ぼくが言っているのは、自分がなにに属するかを決める自由です。自分を縛る鎖は自分で選ぶ」
(第三章 海淵)
不思議だ。(中略)法律的には自由を制限されているのに、経済力だけは垣根を越えて分配せよと言う。法律ですら国のいいように解釈され運用される。ならば個人も好きにしていいじゃないか。
自由は気持ちいいけれど、自由で居続けるには力がいる。(中略)
とはいえ、結局一番のがんばれる理由は『ここはわたしが選んだ場所』という単純な事実なのだと思う。(第四章 夕凪)
きっと、今のわたしたちは昔よりずっと「自由」です。
一本のレールのような決まった道しかなかった昔に比べると、現代は多種多様な道を選ぶことができる。
「多様性」という言葉が、少しずつ拡がっている。
でも、自由は楽ではありません。
決まった道は、ある意味では楽でした。
(その道に乗れない人の苦しみと、不自由さの苦しみもあったけれど)
自由には、責任が伴う。
わたしがわたしの道を選ぶことの責任。
特に、みんなと違う道を選ぶのは勇気がいる。
たくさんの人がわたしを傷つける。大切なものを選んだからといって傷つかないわけではない。
でも、わたしの人生はわたしにしか責任をとれない。
*
たくさんのしがらみのなかで、長い長い遠回りをして最期のときを一緒に過ごしたふたり。
わたしがこの島を出るのは最初から『今』だと決まっていたのかもしれない、とすら思った。(中略)
島のみんなにはわかってもらえないだろう。(中略)
幸せになれなくてもいいのだ。
ああ、ちがう。これがわたしの選んだ幸せなのだ。(第三章 海淵)
暁海も振り返っていますが、きっとこのふたり。
双方の親を振り切って島を出ていたら、「若気の至り」とかなんとかで、早くに破局を迎えていたかもしれません。
幸せってなんだろう。
そのときその瞬間にしかわからない。
暁海が「えいっ」と飛び越えた瞬間は、このときだったのだなと思います。
そのタイミングは、その人にしかわからないのです。
結び:おまけ
北原先生の一見地味に見えてそうではないお人柄が大好きなのですが
「互助会」という関係がとっても良いなと思いました。
「逃げるは恥だが役に立つ」でも契約結婚の話が出てきて、最近よく見る「なろう系」の物語でもよく出てきますが
もう恋愛でも結婚でもなくてもいいんじゃないか。(もちろん、恋愛も結婚もしたい人はどんどんして良い)
双方が納得できれば、「互助会」でゆるく繋がって支え合う。
暁海の母親が入居したシェアハウスのようなかたちも。
「こうしなければならない」の価値観は、せいぜい100年くらいのもの。
凪良さんの本を読んでいると「そういう考え方もあるのね」と感じます。
関連情報
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