昨今は「対話の時代」とも言われています。
でも、実際にやってみると対話ってむずかしい。
意見が対立する人とどうやって折り合っていけば良いんだろう。
一方的に誰かが意見を言って、公平な話し合いの場にならないこともある。
この本では、「そもそも話し合いってこういうことですよ」とわかりやすく解説してくれます。
ビジネス場面だけでなく、広くいろんな場面に活用できる本です。
はじめに:本書での「話し合い」の定義
「はじめに」のところで、まず「話し合い」について定義しています。
本書で話し合いとは、「人々が、ともに生きる他者と対話を行いながら、自分たちの未来を自分たちで決めていく(自己決定・決断していく)コミュニケーション」と定義します。
(P8 はじめに)
「話し合い」って単に「話し合う」だけじゃないのね!
さらに、話し合いを4つに分解しています。
1 話し合いとは、人々が身近な他者とともに働いたり、学んだり、暮らしていくために、
2 自分が抱く意見を、お互いに伝え合い(=対話)
3 他者との「意見の分かれ道」を探り合い、メリット・デメリットを考え、
4 自分たちで納得感のある決断を行い、ともに前に進むこと(=決断)。(P8~9 はじめに)
対話=話し合いではないのか!!?
著者によると「話し合い=対話+決断」(話し合いのなかに対話と決断の両方があるイメージ)です。
そう、話し合いには「決断」もありきなのです。
わたしは「対話」のほうにばかり重きを置いて考えていた。
対話が十分になされれば、自ずと決断に向かうのかなと思っていたらそうでもなく。
対話には対話の作法が、決断には決断の作法があるのです。
すでにここから目からウロコ!
では、「話し合いの作法」を身につけるための旅へいってみましょう。
本書の構成
各章をピックアップすると
第1章 話し合いが苦手な国、ニッポン
第2章「話し合い=対話+決断」——よい話し合いのプロセスとは?
第3章 対話の作法
第4章 決断の作法
第5章 「話し合い」にあふれた社会へ
すべてを取り上げることはできないので、今回もポイントを3つに絞ってピックアップします。
今回取り上げるのはこちら
- 話し合いに必要な「心理的安全性」
- 対話とは「今、ここ」を生きること
- 民主主義的な話し合い
今回取り上げたのは本書のエッセンスのほんの一部分ですので
気になった方は、本書を手に取ってぜひ読んでみてくださいね。
話し合いにまず必要なのは「心理的安全性」
例えば会議などの場面で、上司の発言権が強くて部下はなにも言えない、というのは想像しやすいです。(ダメな話し合いの典型パターンのひとつ)
あるいは、チームの人間関係がうまくいってなくて「こんなこと言ったらどう思われるだろう」とか考え出すと自由に発言することもできません。
これはいずれも「心理的安全性が低い」から起こります。
(ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授による)
『心理的安全性とは「この集団で、リスクを取って何かをしたとしても、対人関係上の危機が生まれない」ことです。話し合いで言えば、「心おきなく自分の意見を言っても、村八分にされないこと」です。
(P43 第1章 話し合いが苦手な国、ニッポン)
日本は同調圧力(空気を読む)が強く、心理的安全性が低い傾向があります。
昔は、それでも良かったのです。
集団のなかでは、できるだけ同調することで全体の利益を守ること、それがイコール個の利益にも繋がっていました。(終身雇用や地域の集団性、「ウチ」と「ソト」の概念)
同調圧力はしんどいけれど、村八分にさえならなければ、集団の「ウチ」で守られてもいたのです。
しかし時代は変わり、現在はずっと同じ集団のなかで暮らすことが当たり前ではなくなりつつあります。
それは、集団だけでなく、価値観や生き方(雇用の在り方)、いろんなところに波及しています。
現代は、全体が画一的に「同じようなもの」を求めるのではなく、多様的で「それぞれが良いと思うもの」を求める、求めざるを得ない時代になってきました。
人も、モノも、価値観も、多様化が進むと「暗黙の了解」は通じなくなります。
つまり、話し合いが必要にならざるを得ない。
そして話し合いには、お互い自分の意見を出し合うことが必要。
しかし、いろんな意見を出すためには、まず「いろんな意見を出してもいい」環境がなければ出せません。
「いろんな意見を出しても大丈夫」、それこそ「心理的安全性」にほかなりません。
『心理的安全性を直接つくろうとしても、具体的に何をすればよいかわからないはずです。(中略)やるべきことは、むしろ「逆」です。
何らかの行為(実践)を行った結果、そこで「何を言っても、干されない」という経験をした「あと」で、はじめて、心理的安全性というものは実感できるのです。(P178 第3章 対話の作法)
心理的安全性は一朝一夕には作れない、これもまた日々の話し合いの中で培っていくものでもあるんですね。
ちなみにそのためには、上司(ファシリテーター)の役割はとても大事になります。
対話とは「今、ここ」を生きることである
「対話の作法」については、本書でいろいろ解説されていますが、今回はわたしが特に「良いな」と思ったところ。
対話は、複数の人々が「ワイワイガヤガヤ(略してワイガヤ・笑)」と盛り上がることをイメージされる人もいるかもしれません。
ワイガヤが苦手な人にとって(はーい、ここにもいまーす!)は、それだけで話し合いって憂うつになりそうです……
しかし違うのです。
しかし、対話とは、私たちが知っている「日常の コミュニケーション」とはかなり異なるコミュニケーションなのです。自分を持ち寄り、他者を受け止め、しっかり間をおいて、じっくり考える。対話とは、しっかりと相手の意見を受け取り、考えることのできる「間のあるコミュニケーション」であり「他者の意見に耳を寄せる時間」です。
(P210 第3章 対話の作法)
そう考えると、「ディスカッション(討論)」とも違うのですよね。
「ディベートdebate(論議)」よりは「ディスカッションdiscussion(討論)」のほうが、話し合いのニュアンスとして近いような気がするのですが
対話は「ダイアローグDialogue」。
対話とは「盛り上がるか、盛り上がらないか」という軸とは、まったく無縁の「しっとりとしたコミュニケーション」です。お互いの意見を聴き合うことができれば、必ずしもワイワイガヤガヤと盛り上がらなくてもいいのです。
(P210 第3章 対話の作法)
わたしはこの「しっとりとしたコミュニケーション」という表現がとても素敵だなと思いました。
以前精神科医の斎藤環先生の対談本で、フィンランドの精神科領域で「オープンダイアログ「開かれた対話」という手法が取り入れられていることを知りました。
激しく意見を交わし合うのではなく、お互いの意見に耳を傾け、その場を共有すること。
これは簡単なようでとてもむずかしく、でも訓練によって誰にでもできることでもあると思います。
むしろ「相手の話にしっかりと耳を傾ける」ことができない人のほうが多いと著者も言っています。
話し合いは民主主義の基本である。
第4章の「決断の作法」。
話し合いの最も肝になるところであり、最もむずかしいところでもあります。
決断って、ある意見を採用する代わりに、他の意見は棄却される。
決め方にもいろいろな方法があるようです。
①メンバーで話し合い、リーダーが決める(吸い上げ型)
②メンバーで話し合い、メンバーが決める(民主主義)
③メンバーで話し合わずに、リーダーが決める(独裁)
④メンバーで話し合わずに、メンバーが決める(突然の多数決)
(P265 第4章 決断の作法)
もちろん②の「メンバーで話し合い、メンバーが決める」が最も民主主義的です。
ここで重要なのは、リーダーが「メンバーで話し合い、メンバーが決める」方法でいくことを、チームのメンバーに対して宣言し、全員の合意をとることです。実は、ここがおろそかになっている場合が、案外多いのです。
(P267 第4章 決断の作法)
「決めるために“どういう決め方をするか明確にする“」ことが大事とはこれまた盲点というか。
ここでもリーダーの役割は大きいようです。
次の言葉、刺さりました。
『ではなぜ、誰が決めるのかを明確にしないのか。その一番の理由は、「責任を取らされるのを恐れているから」でしょう。
「メンバーで話し合い、メンバーで決める」と言うと、一見とても民主主義的でいい感じに聞こえます。しかし、それは「メンバー自身が責任を取る」ことと同義です。民主主義がいいけれども、責任は取りたくない。そのように考えているのか、日本の人々は、とかくこの責任の部分をうやむやにしがちです。
だからこそ、最初に「誰が決めるのか」を明確にすることが、決断においては大切なのです。(P268 第4章 決断の作法)
「結局上司が決めるんだろう」とか「自分じゃない誰かが決めるのに従うだけだ」というのは、無力感に襲われることでもあるけれど、一方で自分で決めなくてもいい楽な状態でもあります。
いやいやそうじゃないでしょう。
自分たちで決めて、自分たちで責任を持とうよ。
話し合い<決断の作法>は、わたしたちの主体性を磨く行為でもあったのです。
本書の最後に、社会の問題に帰結されています。
もはや、私たちは、政治家に問題を託して「はい終わり」では済まなくなっています。私たちの社会は私たちがつくるしかない」「民主的な話し合いを通じて何事も決めなければならない」という意識を今まで以上に強く持たなければならないでしょう。民主的な対話と決断のプロセスを、何事においても重視する社会にしていくこと。それが今、社会に最も求められていることだと思います。
(P296 第5章 「話し合い」にあふれた社会へ)
たぶん、その小さな小さな芽は、子どもの頃から養われていくのだろうと思う。
話し合いって、時間のかかる面倒くさいものでもあるけれど、人が社会的な生き物であり、言葉を持って生きているのであれば、これほど平和的で人間にしかできない方法ってないんじゃないだろうか。
あと、debate(討議)の体験をほとんど持たない日本でも、「話し合い(対話+決断)」はできるんじゃないのかなと思いました。
むしろ自己主張が苦手な国民性だからこそ、欧米のような発信じゃないタイプの「話し合い」を発展していくことは可能なんじゃないかなと、ちょっと楽観的かもしれませんがそんな希望的観測をしたところで終わりたいと思います。
長くなりましたが、ここまでお読みくださいましてありがとうございました。
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