久しぶりにカズオ・イシグロ作品です。
これまでもカズオ・イシグロの作品に触れてきたけど、デビュー作だからといって本書をいちばん最初に読まなくて良かった。
カズオ・イシグロはやっぱり厄介です。難解なのではありません。厄介なのです。
そして、その厄介さの先になんともいえない味わいがあると思う。
しみしみと味わいが身体中に巡り、気がつくと作品の虜になってしまうのです。
面白いなあと思います。
文体の不可思議さ
「浮世の画家」と同じパラドックスが起こります。
つまり、わたしが読んでいるのは翻訳本。地の文は英語。でも、英語で書かれているのは日本の物語。そして、日本を舞台に日本人を主人公として描いているけれど、作者は日本語が話せない。日本人だけど、いまは英国人。でも純粋な、生まれながらの英国人ではない。
同じような境遇で育った人もなかにはいらっしゃるでしょう。
だから唯一無二とは言わない。
しかし、やっぱり作者の生まれと育ちのアイデンティティがあるからこそ生み出されているものはあります。そして、すごく不思議なんだけど、日本を舞台にした日本人を主人公にしている物語を英語で書きながら、そこには文化圏を越えて人々を魅了するものがあるのです。
その、文化圏を越えて人々を魅了するものを描けるのは、カズオ・イシグロだから成し得た技なのでしょうね。
だから、日本の物語だけど、純粋に日本の小説として読めない。翻訳本で、わかりやすく整った日本語を用いているけれど、どこか違う。不可思議さがあるのです。
それは長崎弁(物語の舞台は長崎)にしたからどうこうなるってものじゃないのです。
物語の構成の不可思議さ
物語は、一見すると主人公の悦子が、イギリスに在住している現在から、在りし日の長崎での過去を回想するような構造になっています。
つまり、現在の悦子と、過去の悦子が行ったり来たりします。
ところが、この区切りがとても曖昧。同じ章のなかで、イギリスと長崎が行ったり来たりするのです。明確な区切りがない。
そして、3人称で書かれているけれど、これは明確な過去の話なのかそこも曖昧です。
そう、もうデビュー作にして「信頼できない語り手」は存在しているのです。
(”信頼できない語り手”については、「わたしたちが孤児だったころ」に取り上げています。同書の後書きでも解説されています)
信頼できない語り手
多くの読み手は、語り手の文章を「真実」として受け取ります。
それはある意味正しいのです。なぜなら、語り手にとっては「真実」だから。
でも、それは「事実」ではないのです。
3人称で書かれている場合、それはある意味作者の言葉として受け取ります。
でも、カズオ・イシグロ作品は、作者の存在はぴったりとなりを潜めています。
池澤夏樹が解説で書いています。
「作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。(中略)カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い」
遠いやまなみの光 解説 P273
過去の長崎の情景は、単に過去の回想ではないのでしょう。
それは「悦子の語る過去の世界」なのです。
そして、人が過去を語る時、たとえ同じ出来事でも、10人いれば10通りの語りが生まれる。
語りのなかで、過去は変わることもある。内的現実は変遷するものです。
だから、悦子を通して実は語られるこの物語も、「信頼できない語り手」が存在しているのです。
そして、実は悦子が「信頼できない語り手」だからこそ、物語は会話によって進むことが多いのかもしれないと思いました。この会話の臨場感は、つまり相手との気持ちの通じなさは、変に地の文で書き加えるよりもよっぽどリアリティがあります。
終盤の幕引き
今回読む前に、Amazonのレビューをちらっと見て、翻訳についての意見が書かれていました。
改めて読み終わって確認すると「ああ、そういうことか」と納得。
真理子と悦子の会話です。
英語だと、主語がまず出てくるけれど、日本語は主語を省略することが多い。
読んだときに生じた違和感は、緻密に仕組まれた技巧だったんだなあ。
これについて、翻訳家の意見は書かれていないので、真意はわかりかねます。
カズオ・イシグロ本人もインタビューでこの件について意見を言われているそうなのですが、その記事を読んでいないのでわたしからははっきりとはいえません。
というわけで、ここからはわたしの勝手な推測です。妄想といってもいいかもしれない。
もしかしたら、翻訳家は、あえて主語を省略したのではないだろうか。
主語を入れると、ものすごくそこが浮かび上がってきます。でも、その浮上は、物語を日本語にしたときにはそぐわなさが生じる。明確化すると、ぼやっとした(それこそ翻訳家のいう)「薄明」が、一気に煌々と明るく照らす太陽級の光になってしまう。
真理子=景子、佐知子=悦子
そんな単純なものではないのです。ニアリーイコールかもしれない。これは悦子の語る過去だからです。でも、そこで一人称主語を入れちゃうと、イコールしか余地がなくなる。
これは、ある意味深刻な事態です。物語の根幹が揺るがされるかもしれない。
というわけで、あえて翻訳家はカズオ・イシグロの描く「薄明の世界」を守ったのではないかなと思いました。
結び
いろいろ考察できちゃうのが面白いですね。
だから、物語は単純ではなくて厄介なんだけど、その先にハマる面白さがあるのです。
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