「中動態の世界 意志と責任の考古学」國分功一郎

 

あるところで「中動態」のお話を聞き、興味があったので読んでみようと思いました。

著者の國分功一郎氏は哲学者。

 

哲学はとてもむずかしく、しかも言語学についてのお話も入って、読みながら何度も舟を漕ぐことになりましたが、拙いながら自分なりに得られたことを文章にしておこうと思います。

 

アウトプットって大切。

というわけで、お付き合いくださいませ。ませ。

 

中動態ってなんだ?

中動態は、古代ギリシア語などであった態のひとつです。

英語の時間に、「能動態」「受動態」って習いましたよね。

これが、昔は「能動態」「中動態」「受動態」と3つの態があった。

 

しかし、ここからがむずかしいんだけど、中動態は名前のとおり能動態と受動態のあいだにあるのかというとそうでもなくて、むしろ能動態に近い

 

つまり、昔は能動と受動ではなくて能動と中動の比較で見たほうが良い。

 

古代ギリシア語の教科書の中動態の説明

(1)中動態の意味はむしろ能動である。

(2)動詞の表す動作が主語の利害関心に関係している場合が多い。

(3)しかしその意味は多義的であってこのような説明で汲み尽くせるものではない。

(4)したがって毎回、辞書を使って意味を確かめるべきである。

(P78 第3章 中動態の意味論)

 

わかりましたか? いやあ、さっぱりわかんないです。

 

具体例で考えてみる

わかりやすい例として、カツアゲされてお金を相手に渡すときの場面について例に出されています。(アレントというドイツ出身の哲学者の文献から)

 

カツアゲされてお金を渡すとき、その行為は受動(~される)のようで、お金を渡すのは”私がする”のだから能動(~する)ではないかという議論です。

 

考えようによっては”私”にはお金を渡さないという選択肢があるからでしょう。

 

それに対して著者は

「矯正はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常に溢れている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。」

(P158 第5章 意志と選択)

 

そもそもの発端として、この本が書かれた背景にダルク女性ハウス(薬物・アルコール依存を持つ女性をサポートする団体)の代表の方との出会いがありました。

 

 

プロローグに『ある対話』があります。

「アルコール依存症、薬物依存症は本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気なんだってことが日本では理解されてないからね」(中略)

「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」

(P4 プロローグ)

 

例えば「アルコールをやめる」という意志を持つこと。

でも、意志を持っても簡単にやめられないから依存症という病気なのです。

 

じゃあそのときに「やめると言いつつアルコールを飲む」行為は、能動なのか。確固たる意志で能動的に飲んでいるかというと、これまたむずかしい。

本人は「やめたいと思っているけどやめられない」状態かもしれません。

 

そういうときに、能動と受動の括りだけで考えていると「意志が弱い」とか的外れの精神論が出てきてしまう。

 

 

著者は中動について考えるときに、スピノザを引用しています。

(えーと、知らない人のために。スピノザはオランダの哲学者です。わたしも名前くらいしか知らない)

 

ここから、スピノザ倫理学の一つの注意点が導き出せるように思われる。

われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に拝することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。

(P258 第8章 中動態と自由の哲学ーースピノザ)

 

人は生きていることそのものが他者(外部)と関わることに繋がり、外部と関わることは、外部の影響を受けることに他ならない、だから完全に能動(自分の意志だけ)というのはありえない、ということかな。

 

例えばアルコール依存の人を例に持つと、お酒を飲むとき、なにかしらのストレスが溜まってそれをやり過ごす行為としてアルコールに走ることがあります。(俗に言う「お酒に逃げる」行為です)

そもそもそのストレスは、自分一人ではなく他者(外部)がいて生じるものだと思います。

 

ひとりで生活している人でも、孤独を感じているのであれば、他者がいないことを意識していることなので(本人に自覚がなくても)、それも外部との関わりに端を発しています。

 

物語を通して考えてみる

最後の章では、アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの小説「ビリー・バッド」を取り上げています。

 

「ビリーはその身体的特性ゆえにしばしば極端に受動的な状態に置かれる。だが、彼は完全に受動的になるのではない。何事かを完全に強制されるわけではない。どんなに受動的な状態に陥ろうとも、そこにはほんの少しかもしれないとはいえ、能動的な契機が残されている。すなわち自由になる可能性が残されている。言い換えれば、ビリーはどうすれば自由になれたかという問いを提起する可能性は残されている」

(P291 第9章 ビリーたちの物語)

 

「われわれは自分がもって生まれたもののゆえに、あるいは生きてきた時間の重みゆえに、あるいは他の人々とつくり上げる関係のゆえに、自由ではいられない。行為を強制される」

(P291 第9章 ビリーたちの物語)

 

「完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるということはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

(中略)

われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。(中略)たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいて行くことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」

(P294 第9章 ビリーたちの物語)

 

人と人が関わることは、完全な能動もなければ、完全な受動もない。

また、完全な自由もなければ、完全な強制もないとも言い換えられる。

 

超大雑把にまとめると、それが「中動態の世界」なのかな。

 

そして、完全な自由も強制もない、そういう世界に生きているということを「知る」ことは、完全ではない(むしろ完全を求めるのは筋違い)けれど、自由に近づくこともできるということでしょうか。

 

結び

わかったようでわからないような。

「中動態の世界を知る」とはそんな生やさしいことではないのかもしれません。

 

ただ、わたしの拙い頭では理解力が追いつかないのですが、本を読み上げたあとよりも、こうやって文章にまとめた(まとまってないけど)ほうが、ほんの少し、理解が進んだ気がします。

ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

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