『椿宿の辺りに』梨木香歩

久しぶりの梨木さんの本です。

数ページ読んだだけで「ああ、梨木さんだ」とわかる静謐な深く染み入ってくる文体。

 

お恥ずかしながら、わたしは浦島太郎のモデルになった山幸彦(火遠理命=ホオリノミコト)のことをよく知りませんでした。

わたしの神話に対する知識なんてそんなものですよ(笑

こんなふうに、日々アップデートされていきます。

 

※この感想は、この物語の下地にもなっている「f植物園の巣穴」を未読の状態で書いています。

 

導入:山幸彦、海幸彦

天孫(アマテラスのお孫さん)である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花之咲耶比売(コノハナノサクヤビメ)との間に生まれたのが、海幸彦、山幸彦。

 

正確には3兄弟で

ホデリノミコト(海幸彦)ホスセリノミコトホオリノミコト(山幸彦)

なのだそうです。

 

しかし、3兄弟の真ん中は神話にはほとんど登場しません。

この物語では、その真ん中(中空の神のような存在)の役割を椿宿の店子の家の息子さんだった「宙幸彦(ソラサチヒコ)」さんが独自に担います。

 

 

文字通り、海幸彦は海を、山幸彦は山を自らの持ち場に生きていました。

ある日、山幸彦の提案で互いの場所と道具を交換します。

 

しかし、山幸彦は海幸彦の大事な大事な釣り針を失くしてしまいます。

そんなこんなですったもんだの末(大雑把だ)、海の底の宮へ行き、豊玉姫(トヨタマヒメ。乙姫のモデル)と結婚。

浦島太郎の物語のモデルになったとはいえ、神話の太郎のモデルの山幸彦はけっこう自分勝手な神様です。

 

神話の神様って、びっくりするくらい我が強いというか、人格者とは程遠いですよね(笑

いにしえの神様がこれだけ人間くさいのだから、わたしたち名もなき民は、そこまで周囲を気にしなくてもいいんじゃないかなとか思います。

ギリシア神話とかもそうですけど。

 

物語は、そんな山幸彦の名前をつけられた、山幸彦さんと、その従妹の海幸比子(女の子なので彦じゃなくて比子)さんが登場。

そして、タイトルにもついた彼らの祖先のかつての棲み家「椿宿」をめぐる物語です。

 

神話や世代を駆け巡り、「痛み」というもので表現されるもの。

わたしには語る言葉の引き出しが少ないのですが、感じ取ったものを少しでも言葉にしておきたいなと思います。

 

※このあとは基本的な物語の通称として、山幸彦さんは「山彦」さん、海幸比子さんは「海子」さんと呼びます。しかしこんな凝ったお名前をつけられた二人は苦労しただろうな。特に海子さん。女の子なのに……キラキラネームもびっくりです。

 

痛み

この物語は「痛み」からはじまります。

痛みが、物語を誘う鍵として存在します。

山彦さんも海子さんも、それぞれに痛みに苦しんでいます。

 

痛みって不思議なんです。

がんでも、「痛みをいかに取り除くか」は永遠のテーマです。

 

シシリー・ソンダース(名前)は、「トータルペイン(全人的苦痛)」として痛みを表現しています。

痛みって、単に身体の痛みに限らない。

それぞれに感じ方に違いがあるから、どれほどの痛みかも人によって異なる。

人は痛みがあるから、異常をキャッチすることができるとも考えられる。

 

痛みがあるときは「もうこんなものは世の中からなくなったらいいのに」と思うけれど、おそらくこの世界から痛みがなくなったら、きっと世界は大事なものに気づく機会を決定的に失ってしまうのかもしれません。

 

私は長い間、この痛みに苦しめられている間は、自分は何もできない、この痛みが終わった時点で、自分の本当の人生が始まり、有意義なことができるのだと思っていましたが、実は痛みに耐えている、そのときこそが、人生そのものだったのだと、思うようになりました。痛みとは生きる手ごたえそのもの、人生そのものに、向かい合っていたのだと。考えてみれば、これ以上に有意義な「仕事」があるでしょうか。

(「椿宿の辺りに」宙幸彦への手紙)

 

なかなかこの境地に至るのは容易ではありませんが、「痛み」について考えさせられました。

 

 

積極的に待つこと、何もしないこと

その治水事業というのは、どうするのかというと、これが、結局何もしないのだと。地勢の条件から、結局その土地はそうするのがいいだろうということになったのでしょう。(中略)自然の回復力を信じて、人間は何も手を加えないのが一番いいのだと。

海子はその話に、とても感銘を受けたようでした。確かにそれは、問題があれば全てに手を打とうとしてきた、今までの海子の生き方とは違います。私も、そういう積極的に「ただ待つ」姿勢に、何か、これからの私どもの在り方への示唆があるような気がしています。

(「椿宿の辺りに」宙幸彦への手紙)

 

椿宿の辺りは、川の氾濫がよくある土地だったようです。

治水工事もされて、近年はダム建設の話もあるほどです。

 

これも、是非はあると思うのですが「そんな考え方があるんだ」と目から鱗でした。

 

痛みと同様、そのさなかに置かれると「とてもそんな悠長なことを言っている場合ではない」となりそうです。

 

近年の集中豪雨や台風、地震などによる天災のあと、声が上がるのは人災ではないか(十分な対策がなされていなかったのではないか)という非難です。

もちろん100年に一度の有事に備えることは、間違ってはいない。とても大切なことではある。

本来為されていたら防げたかもしれないことで、犠牲が出るのはほんとうに哀しい。

 

でも一方で。

「何もしない」「積極的に待つ」ことにエネルギーを注ぐ。

 

この辺の見極めはほんとうにむずかしいところです。

 

ありとあらゆる可能性を検討した上で、そちらへシフトするということもありうるのかなと思いました。

世界は、世の中は、思っていた以上に万能ではない。

人にコントロールできる範囲などたかが知れている。

 

「何もしない」神。

日本神話にはそういう中空を担う神様が昔から存在していたように。

 

敢えて「何もしない」ことを選択する。

 

ちなみに。「何もしない」って「何かをする」よりも場合によってはずっとずっとエネルギーがいります。決して楽なことじゃないのです。

もしかしたら、今の時代にこそ求められていることかもしれないと思いました。

 

おまけの感想

珠子さんはポジティヴを身に纏った天衣無縫なお嬢さんで、山彦さんと一緒になったら化粧品のモニターもイケイケどんどんやってくれそうだなとか。

公務員だから、もしご一緒になったらお住まいはどうされるんだろう。

珠子さんは土地に愛着のある人から動かなさそうだし、別居婚か、山彦さんはむしろ転職? とか、どうでもいい妄想が湧きました(笑

 

あと、物語に登場した「f植物園の巣穴」読んでみます。

これは読まねば終われない。

次回はそちらの感想を。

 

一周回って、「椿宿」2周目の感想も上げます。

(↓上げました。)

椿宿2周目の感想(追記)

※こちらは「f植物園の巣穴」を読んだあとの2周目感想です。(※2023年3月11日追記)

▷▷ 「f植物園の巣穴」の感想はこちら

 

初読のときのよくわからない手探りで読み始めるのに比べると、さりげなく散りばめられた「f植物園〜」の流れがするすると入ってきました。

こんなにいろんなところに豊彦さんの痕跡が! 

これは、紛うことなき「f植物園」の続編です。(いや、そうなんだけれども…)

 

山彦さんが、想像以上に曽祖父さん(豊彦さん)に似た人だった(隔世遺伝とはこのことか・笑)

でも、「f植物園」は豊彦さんの1人称視点(ひとり語り)だったのが、「椿宿」では海子さん、宙彦さんという複数のハーモニーが奏でられていました。

 

それこそ、道彦さんが「山幸彦」「海幸彦」の名前を孫たちに託したこと

間接的に、竜子さんがその思いに助力して「宙幸彦」の名前を自分の息子に名付けたこと

 

「ナスベキハイエノチスイ(為すべきは家の治水)」というお稲荷さんのお言葉が、世代を越えて取り組まれる。

一代では為し得ないことも、世代を越えて長い時間のなかで育まれていく。

(最後の「何もしない」「積極的に待つ」こともまた、世代を越えて受け継がれていきます)

 

そして改めてこの物語は、中空の存在「宙幸彦」さん、主になって動く「山幸彦」さん、山幸彦と対で登場する「海幸彦(比子)」さんという3者が揃うことが大切だったのだなと思い至りました。

神話のなかの同じ名前(宙幸彦は道彦・竜子さんの創作ですが)であることが重要ではなくて(神話の人物の人柄と重なることが重要ではない。実際彼らは全然違う人間)、役割、立ち位置とでもいうのでしょうか。そういうものを与えられていたように思いました。

 

山彦さんからすれば、大きな流れに向かわされたことかもしれないし

ここに海子さんという女性のファクターが入ったことも可能性の開け方だろうし

厄介なことではあるけれど、彼らが「痛み」という曽祖父豊彦さんと同じ入り口でもって誘われたこと

 

そして、ここに宙彦さんという「中空」(彼は重要な役どころであるのに実際は物語に直接的に関与せず、一度も登場しない。不思議な存在)を担う存在が布置されたこと。

 

物語の巧みな仕組みが、「f植物園」と「椿宿」の両方を眺めることで見えてきました。

久しぶりに胸が熱くなりました。

 

 

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