導入:辻村深月作品について
辻村深月さんの本は好きで、けっこう色々読んでいます。
心理描写がとても秀逸。
はじめて読んだ本はなんだっけ?忘れたけど(忘れたのか)(忘れるくらい色々読んでいます。たぶん「名前探しの放課後」だった)、「なんでこんなにわたしの考えていたことをぴったりとする言葉で言い表せるんだろう」とびっくりしました。
昨年だと「かがみの孤城」も読みました。
不登校の子の心情の描写にうんうんと頷いて、教師や保護者、いろんな世代の人に読んでもらいたいと思った。
今回は、そんな辻村さんの短編集のお話です。
読んでいる最中から感じていたこと。
あれです。これは「鍵のない夢を見る」を読んだときと同じ感覚です。
ものすごくリアルに感じられる描写と、胸のざわざわとする居心地の良くない感じと、読後感のなんとも言えない悪さ。
そして、これはなんだろうと感じたときに、表題の「噛みあわない会話と、ある過去について」が、これでもかというくらいピタッとはまる。
わたしは本を読んで、その本から自分がなにかしら得たいと思って期待していることが多いです。
別にハッピーエンドでなくても良いのです。でも、なにか読んだ後に”良き手応え”を残したい。
しかし、辻村さんの本は、全部ではないのだけれど、時々全然違うベクトルでやってきます。
少なくとも、この本にわたしの求めるような”良き手応え”は存在しない。
でも、一度見てしまったら目を背けられないような何かが存在します。
残酷なほど、秀逸で、そういった文章に惹かれるわたしも存在します。
本編より:毛色の似ている「パッとしない子」と「早穂とゆかり」について。
以前梨木さんの「僕は、そして僕たちはどう生きるか」を読んだときに、コペルくんが友だちのユージンの傷つきから目を背け、気づかないふりをしていたことに後になってから気づく描写がありました。
これは、コペルくん自身が悪いわけではないのです。
幼さゆえに理解されづらい感情に折り合いをつけるために、そうなったところがあります。
決してユージンを意図的に傷つけようとしたわけではありません。
でも、ユージンは傷ついているし、結果的にふたりは長いこと疎遠になっていました。
そのように、人は意図して傷つけるつもりはなくても、結果的に気づかないうちに自分の知らないところで誰かを傷つけることがあります。
傷つけられた人は、人一倍傷に敏感です。
でも、一方で、そういうことも起こりうるということ、つまり、傷つけられた人もだれかを傷つける側に立つということも肝に命じておかないといけないなと思います。
この二つの短編は、簡単にいうと復習劇です。
傷つけられた側の人間が、華々しく出世した後に、かつてのヒエラルキーのトップにいた人を、完膚なきまでにボコボコに復讐します。
面白いのは、物語の視点は、復讐される側だということ。
よく、いじめられた人はよく覚えていても、いじめたほうはそんなに覚えていないということがありますよね。
これらの物語は、いじめは扱ってはいないけれど、似たようなところがあります。
そう、いじめではないのです。悪意がないからこそ、余計にタチが悪い。
誰でもとは言わないけれど、傷つけられたことに対して糾弾をして、相手がものすごく反省して胸が晴れるような夢物語を想像したことはあるかもしれません。
わたしがあのとき、あなたの心ないひとことにどれだけ傷ついたのか。
傷つけられた人は、ずっと鮮明に生々しく覚えていることが多いのです。
わたしも、そういったことはあります。
でも、一方で、相手はきっともう全然覚えていないだろうなあとも思います。
だから、それは所詮夢物語です。
そして、もう一度最初に立ち返っていきます。
わたしだって、わたしの気づかないところで、わたし以外の誰かを傷つけたかもしれない。
そう思うと、この傷は、その相手に復讐することで癒されるのではなくて、もっと違う方法で癒していくものなのだろうなと思います。
こころの傷は、トラウマです。
トラウマは目に見えない分、癒していくのに時間とエネルギーが必要とされます。
場合によっては、専門家の力が必要となるかもしれません。
そして癒されていないトラウマは、ときにそばにいる誰かを傷つける負の連鎖を起こします。
もしかしたら、数年前のもうちょっと傷が深かったわたしが読んだら、もう少し胸のすく思いがしたのかもしれない。あるいは、胸のすく思いと同時に、少し引っかかりも覚えたかもしれません。これは加害者側の視点から描かれているから。
いまのわたしは、ちょっと進んで、気持ち悪さがまず最初に起こりました。
どちらにも共感できずに、でも一方でどちらにも共感してしまうので、なんとも「噛み合わない」のです。
辻村深月さんの作品のなかでは、好きな部類には入らないのですが、でもやっぱりすごいなあと頷いてしまいました。
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