物語を通して眺めること『琥珀の夏』辻村深月

 

久しぶりに辻村深月さんの作品。

地味でおとなしめの、自分に自信のない内向的な感受性高めの女の子を描くと辻村さんの右に出る人はいないんじゃないかしらと思います。

※本編の内容に触れています。ネタバレが気になる方はご注意ください。

 

簡単なあらすじ

ニュースで女児の白骨死体が見つかったと報道された。

遺体が見つかったのは、<ミライの学校>の跡地。

子どもたちが親元を離れて<学び舎>と呼ばれる場所で共同生活を送り、自然の近くで、自分で考える力を養うことを掲げていた団体だ。

 

弁護士の法子は、かつてその<ミライの学校>の夏の合宿に参加したことがあった。

自分たちの孫ではないかと老夫婦から依頼を受けた法子は、<ミライの学校>で出会った「ミカ」という少女のことを思い出す。

 

感想

こういう親元を離れて共同生活を送る特殊な場所があることは、以前聞いたことがありました。

(わたしは聞いたことがある程度で詳しくは知らないので、そのことの是非は今回は飛ばします)

 

これはいろんな切り口から考えさせられます。読む人の立場によって、感じ方も全然変わってくるだろうなあ。

わたしもいろんなことを考えさせられました。

今回も3つのテーマから感想を書いてみます。

この感想のテーマ

  1. けん先生について
  2. どこにいても人間的なものからは逃れられない
  3. 子どもたちの世界を描く

 

なかなかむずかしいテーマを扱っている作品なので、後半に行くほど感想がむずかしくまとまらなくなっていますが

自分がいま語れる言葉でがんばって書いてみます。

よかったらお付き合いくださいませー

 

けん先生について

ありあまる個性で存在感を表すけん先生(菊池賢さん)。

こういう一見熱血派の、自分が正しいと信じて疑わない偽善的な人っているよね、と思いながら読んでいました。

 

ある意味で純粋すぎるので、ミライの学校の理念にすっぽりとハマり。

でも純粋すぎるので、理想と現実のギャップにミライの学校を抜けたあとは逆に糾弾する立場にまわる。

 

どこにいても「自分は正しい」を軸に動いている人。

自分の意見と違う相手には、厳しい攻撃性を向ける人。

 

でも、こういう人の純粋さに救われる(ノブくんみたいな)子がいるのも現実なんですよね。

ノブくんは、確実にけん先生の「誰も見捨てないこと」に一瞬でも救われた子です。

(ノリコが見つけた夏の一コマなので、その後のノブくんの人生にどれくらい影響を与えたかは不明ですが)

 

だから、そういう意味でけん先生は悪人とも善人とも言えないのです。

まあ、善か悪かで分けるのがそもそも眉唾なお話ですけど。

 

面白いなあと思ったのは、ノリコが目撃したさちこ先生とのシーン。

なんなんですか、この昼ドラ的展開は!?(笑

さちこ先生が既婚者なのか独身なのか不明ですが、けん先生よりは年上らしい。

 

子どもたちから見ると、ミライの学校の先生たちは理想的な大人の役割。

(ふつうの)学校の先生よりは、おそらく滅多なことでは怒らないし(一応子どもたちに考えることを重んじているので)、子どもたちの自主性を尊重している。

学校の先生とも、親とも違うような立ち位置。

 

ある意味でそれは、大人たちも「子どもたちへの理想的な教育」を掲げているから、自分たちも「理想的な大人」を演じているところもあると思います。

 

でも、一枚皮をめくると、理想はあっても現実もあるわけで。

現実は大人の男女が出会うと、まあそういうこともあるよね。

(ノリコの一瞬の目撃なので、けん先生の一方的な衝動的な行動かもしれません←それをセクハラって言うんだよ……

 

終盤の、事件の真相が語られたときの。

子どもにはあまりにも刺激の強すぎた大人の一面にも繋がる伏線のようでもありました。

(<学び舎の子>として育ったミカと、<麓の子>で合宿の時だけ参加するノリコの、体験の濃度の差みたいなのがここにも表れているような)

 

どこにいても人間的なものからは逃れられない

ミライの学校は、大人の理想からはじまったような場所です。

創設者には、確固たる理念があったのだろうと思います。

 

賛同する人たち(ユイの母親のように、育ちが良くて高学歴の主婦など)も、やっぱり理想があったからだろうと思う。

その思いに、嘘はないのだろうと思う。

 

でも、人が集まるといろんな思いが集まる。

集団性みたいなのが出てくる。

意見の合わない人だって当然出てくる。

 

菊池賢が言っていることは、一面を切り取れば、間違ってはいないのだろうと思います。

大人たちの理想が子どもに向かうことで、「ミライはここ(子どもたちの頭のなか)にしかないからね」と言いながら、その集団生活は、子どもたちに制限を加えることにもなる。

集団生活にはどうしても決まりごとがつきものだから。

 

問答で自分で考える力を育むといいながら、一方で誘導になるのと紙一重でもある。

 

ある意味で、理想に生きる学校の大人たちは、社会という現実にまみれて生きられなかった人たちでもあります。

さらに、そこに賛同する大人たちも、自分のできなかったことを子どもたちへ押しつけているとも考えられます。

 

一見理想的な生活でも、内実はウワサ話に花が咲いたり、仲が良かったり外されたり、「麓」の子どもたちの世界となんら変わりがない。

理想を押し付けられた子どもたちは、もちろん大人の理想通りに育つわけじゃなくて、「寂しさ」「妬み」「怒り」などのネガティヴな感情も抱えながら生きることになる。

そして実際のところ、大人たちもまた、住む世界を社会から少し離れたところに置いただけで、そこで理想的なユートピアが築かれるかというとそうでもなく、やはり人間くさいところは出てくるのだろうと思います。

 

大人たちも規則のなかで生活しているから自由は制限されるけれど、そのなかで自分の私物を入れるロッカーは、その人の人間らしさ(理想の対極にあるかもしれないもの)が表れるかもしれません。

綺麗でいたいと思えば思うほどに、綺麗じゃないものに惹かれるように。

わたしは(その性癖が良いかどうかは別にして)そういう<すき間>みたいな空間があることは悪くないなあと思いました。

 

しかし、そういうのを嗅ぎ分ける力がひと一倍鋭い子もいるといいますか。

ヒサノちゃんの傷つきやすくて外へ向ける刃の鋭さ。残酷ですね

 

だけど、久乃がしたことは、人の尊厳を脅かすことだ。(中略)美夏は直感で悟っていた。それが大人であれ子どもであれ、人にはそれぞれ、土足で踏み込んではならない場所がある。そこに踏み込んで、ましてや、他の子どもたちの目の前に晒すなんて、そんなのは許されない行為だ。

(P510 最終章 美夏)

 

美夏が咄嗟に直感で悟ったことは、とてもとても大切なことでした。

たぶん、そういう繊細な場所を、彼女自身が大切に持っていたのだと思う。

 

子どもたちの世界を描く

この物語のなかで繰り返し繰り返し問われているのは、なかで育った子どもたちが「かわいそうな子でもなければ異常な子でもない」ということです。

彼らにとって、それは特別なことではなく、それが当たり前だった。

 

「かわいそう」は、上から下の目線。

あるいは、自分と違う世界に生きる人たちへの、奇異な目線。

それが蔑みなのか、憐れみなのか、人によって異なると思うけれど。

 

また、「そういう生活が当たり前だったから、寂しくなんてなかったよね」も違う。

法子や美夏を中心とした語りで、断片的にしか見えませんが、みんなそれぞれに寂しさや傷つき、いろんな感情を抱えていました。

表現の仕方は違えど、ユイもヒサノもそうでした。

 

ノリコが夏の学校の思い出を「ひとことで言えば『楽しかった』となるが、実際はそんな簡単なひとことでは済ませられないいろんな感情があった」と振り返っています。

 

いろんな思いや体験が入り混じって、その人ができる。

菊池賢のように、単純に白か黒かで分けられるほど、簡単なことではないのです。

 

 

実はこの感想を書いていて、途中で筆が止まって半年ほど置いていました。

今でもうまく言葉にできない。むずかしくて繊細な問題です。

 

そこで体験した子どもたちの存在、世界は、わたしは否定されるものではないと思います。

彼らは、どこに身を置くか自分で選べません。

 

ノリコは、自分の意思で参加しているといえばそうだけど(発端は友達に誘われたから自分も行くというこの年代特有の。今はトイレに行きたくないけど友達が行くから自分も行くみたいなのとあまり変わらない)

ノリコはレアなケースで、大抵は大人が主導で動いています。(一見当たり前なノリコの親が彼女の意思を尊重することが、この物語では当たり前ではない)

 

保護者(大人)の責任はあります。

そして、いつも大人の都合に振り回されるのは子どもたちです。

大人たちもある意味では未熟で傷つきを抱える存在であることはさておき。

 

でも、この物語は、そういった大人たちの責任を追求することを目的とするのではなくて、そこで生きた子どもたちの世界を否定せずにただありのままの事実として描く。

ミカという内から体験した人と、ノリコという外から体験した人。

ふたりの異なる視点で彼女たちの物語を眺めたとき、事件を単に外から眺めるのとは違った世界が見えてきます。

 

もちろんこれはフィクションだし、現実はもっと過酷だろうとも想像します。

ただ、物語を通して違った目で見つめる。

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」で赤ちゃんポストを、「朝が来る」で望まない妊娠・子供が欲しくてもできない女性を取り上げた辻村美月さんの、物語を通して社会を眺める作品のひとつのような気がしました。

 

 

そこから何を感じとり、何を考えるかは読者に委ねられているのでしょうね。

(まあ、単純に物語として楽しんでもいいのです。物語はそういう懐の深い余地があります)

 

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