俳優の松重豊さんと、曹洞宗建功寺のご住職・庭園デザイナーとしても有名な枡野俊明さんの対談本です。
わたしの好きなお二人の対談本、しかも「十牛図」をテーマにしているとあって、読む前からワクワクが止まりませんでした。
はじめに:「十牛図」って何?
「十牛図」は、(中国の)宋の時代(北宋、南宋合わせて960〜1279年)につくられたと言われている「禅の入門書」のようなものです。10枚の絵に描かれているのは、悟りに至る道筋です。悟りと言うと難しく聞こえるかもしれませんが、そこには我々が歩むべき、人生そのものが描かれているように私は感じています。
(P23 1章 牛を探す、その前に)
「十牛図」で検索すれば、10枚の絵を見ることができます。
初めて目にした方は、ネットで検索してみてくださいね。
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わたしは以前から十牛図のことは知っていましたが、悟りに至る過程というのも、なんだかよくわからないなあと思っていました。(そう簡単にわかったら苦労しない)
でも、禅の考え方には前から興味があって、枡野さんの本も何冊か読んだことがありました。
今回は、俳優の松重豊さんとの対談というかたちで、それぞれの人生も振り返りながらわかりやすく解説してくださっています。
対談本としても面白いし、十牛図のことを知るのにも役に立つ本です。
感想
今回も、テーマを大きく3つに絞って感想を書いていきたいと思います。
《本日のお品書き》
- 自分が魅力的と思うことを選ぶ
- 年齢をかっこに入れて生きる
- 日常を丁寧に生きること
今回取り上げたところ以外にも、「ふむふむ」と参考になることや、日常の役に立つお話がたくさんあります。
気になる方はぜひ本書を手に取って読んでみてくださいね。
自分が魅力的と思うことを選ぶ
「もちろん、人生は選択の連続です。ですけれどもその時に、どっちに行ったら得かというような損得勘定を抜きにして、自分にとって魅力的かどうかを物差しにするのが、結局はその人にとっての最善の道になると思います。
(中略)
不思議なものなのですが、自分が魅力的と思うものを基準にして道を拓いていくと、だんだんと縁が結ばれていく。これは本当に不思議なものでしてね、自然に縁が開けてくるんです」
(P124 3章 暴れる牛と私の行方「十牛図」五)
ふと、最近読んだ別の本が思い浮かびました。
「ネアンデルタール人は私たちと交配したのか」の本で、著者のペーポ博士は、人生の分かれ道に来たときに3択から「自分がいちばん面白いと心惹かれること」を選びました。
つまり、自分が興味のある古代人のDNA解析です。
医学博士だったペーボ博士には、もっと堅実な臨床医としての道や、科学者として有益な研究をする道もあったのです。
▷▷ 「ネアンデルタール人は私たちと交配したのか」の感想はこちら。
それって、まさに「損得勘定ではなく、自分が魅力的かどうかを基準にして選ぶ」こと。
ちなみに、そのときその道を選ばずに違う道を選んで進んでいて「やっぱりあっちの道が自分には魅力的だ」と思って選び直すことも、人生では大切な回り道なのだそうです。
そのとき別の道を進んでいた回り道は、どこかで役に立つこともあったりするもんです。
松重「今の自分の日常に、目の前の課題に、まずはちゃんと向き合うことがいちばん大事なんですね。そこで斜に構えたりすると絶対にろくなことにならない」
(P72 2章 牛探しの旅に出発「十牛図」二)
どちらにしても、選んだらそこに真摯に向き合うこと。
「自分は本当はこんなのやりたくなかったんだ。ぶつぶつ」と言って適当にしていると、自分の大事なことを見失うかもしれません。
まあ、「ちゃんと向き合う」って簡単なようでとてもむずかしいのですけれど。
「年齢を括弧に入れる」こと
「年齢を括弧に入れる」という表現は、この本ではなく、心理学者の故河合隼雄先生が言われたことです。
将棋棋士で十七世名人の谷川浩二さんとの対談本でもこの表現を使われています。
河合「年齢を無視するんじゃないんです。時々無視する人もいますよね。(中略)そうじゃなくて、ちょっと括弧に入れておくんです。七十五歳という年齢は括弧に入れておいて、やりたいことを一応やってみる。それで失敗したら括弧を外して、やっぱり駄目だったかと思えばいい」
(「あるがまま」を受け入れる技術 第一章 年のせいで、やりたいことを諦めない)
わたしはこの「年齢を括弧に入れる」という表現が好きです。
完全に忘れてしまうことはできないけれど、とりあえず括弧に入れてやっていく。
自分で先に限界を決めてしまわない。
(この感想を書きながら、そう言いつつ、普段すぐに限界を決めてしまおうとする自分がいることを思い出しました・笑。自分に言い聞かせたい言葉でもあります)
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本書を読んでいて、年齢を気にしすぎずに、その人その人の道を歩むことの大切さを改めて感じました。
十牛図の過程も、いつからはじまるかわからないのです。
若い頃からはじまる人もいれば、60歳になってはじまる人もいる。
あるいは、一生自分に向き合うことなく人生を終える人もいるかもしれません。
松重さんも、順風満帆に俳優人生を歩まれてきたわけではなく、紆余曲折あり現在に至るそうです。
でも、それこそ幼稚園くらいの頃から演劇には興味があったそうで、それこそ最初の「自分が魅力的に思うこと」の芽は小さい頃から育まれていたのでしょうね。
枡野『自分の「今日の」能力の限界は分かっているかもしれないけれど、「明日の」能力の限界はまだ自分でも分からない。本当の自分を探す旅をやめない限り、今日と明日の自分は違っていくはずです。ですから、自分の能力は自分でも未知数だと思います』
(P173 4章 道草を食いながら——人生相談)
松重『「年齢っていったいなんなんだろう?」と思います。自分の年齢に対して恥じることもないし、いきがることもない。年齢というのは単なる記号で、その境界が分からないというスタンスでいられることのほうが僕はいいなと思います。
成長が遅い子だっているし、早い子だっている。年齢による呪縛なんて、これからはますます必要ない時代になっていくんじゃないかなと』(P169 4章 道草を食いながら——人生相談)
日本は年功序列の考え方がいまも根強く残っています。でもグローバルにはその流れは主流ではない。
もちろん年齢ではなく能力で勝負するのは、競争化社会をより強める在り方でもあります。その流れに乗ることが苦手という人もいると思います。そういう在り方が必ずしも正しいかはわかりません。
でも、なんというか、いくつになってもやり直せる社会、いくつになっても新しいことを学べる、チャレンジできる社会のほうが、わたしは良いなと思います。
年齢を気にして、チャレンジできないのはあまりにもったいないと思いませんか?
日常を丁寧に生きること
この対談では、まず掃除のお話が出てきます。
禅では、掃除も大切な修行のひとつです。
これは修行をされるお坊さんだけでなく、わたしたちにも、広く通じるところがあります。
枡野『生活のなかのすべての所作に現れてくるんですよ。
(中略)
禅には「行住坐臥」という言葉があります。「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」は座ること、そして「臥」は寝ることです。つまり生きている限り、自分の所作すべてが修行なのだという意味。とにかく何をするにも心を込めて丁寧にやりましょうということになります』(P30 1章 牛を探す、その前に)
わたしはこの考え方が好きです。
日々の当たり前のひとつひとつが、実は大切なことなんだと気づかされます。
「修行」というとなにか特別な辛くてキツいことなのかなと連想しますが、そうではなくて「日々を丁寧に生きること」と考えると、それならできそうと思います。
まあ、簡単なようでこれがむずかしいのですが。
だからこそ「修行」と言えるのかもしれません。
松重『結局、目の前のことを一生懸命やって積み重ねていくしかないということか。』
枡野『「即今、当処、自己」です。「今、ここで、私が、生きる」という意味です。実にシンプルです、今ここで、やるべきことをやるということ。もう、それを積み重ねていくしかないのですよ』(P210 5章 再び街へ出かけよう「十牛図」十)
シンプルながら奥深い言葉です。
結び
読んでいるだけで癒されるような素敵な対談本でした。
枡野さんのお話に触発されて、このあとわたしは禅の庭を見に行きました。
そのお話はまた次回に!
関連情報
▽今回の記事で取り上げた本の一覧
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