『クララとお日さま』カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの長篇作品。

ノーベル賞を受賞されてからは初の作品だそうです。

カズオ・イシグロの世界に浸る

これまでカズオ・イシグロさんの作品は何作か読んできましたが、ああやっと。わたしはカズオ・イシグロの世界に引き込まれたと自覚するようになりました。

それぞれの物語は舞台も設定も内容も全然違うのだけれど、根っこのところでカズオ・イシグロの世界として引き込まれます。

そうして、どっぷりとその世界に浸ってその世界の物差しで眺めたあと、また現実の世界に戻ってくると「 ああ、戻ってきた」という安堵感と共に、少し寂しいようななんとも言えない気持ちになります。

 

そのなんとも言えない気持ち (単に快や楽しいというものだけでなく、いろんなものが入り混じった気持ち)を味わうことが癖になると、またカズオ・イシグロの世界に “引き込まれて“しまうのだろうなと思いました。

そういう才能を持った小説家はそうそういません。

今回「クララとお日さま」を読みながら、わたしはカズオ・イシグロの世界にどっぷりと浸かっていました。文字通り引き込まれていました。

その感覚を言葉にするのは、とてもむずかしいので、いざ感想を書くとなると現実を見る “ありきたりな“物差しになってしまうけれど、まあそれでも書いてみようと思います。

実際はありきたりな感想よりは、その世界に浸ることのほうがよほど意味のあることです。

でも、それは体験であって感想にはしづらいですよね。

アンドロイドは人間の友になりうるか。

クララは AF(人工親友)です。

わたしたちと異なる世界である物語のなかでは、ある種の(階級ともいうべきか)子どもたちはAFをステイタスのように所有しているようです。

(物語でいう「向上処置」を行った子どもたち。リックは受けていないので、AFを持つ資格がないようです。物語のなかには格差があります)

人工知能を持つアンドロイドは、感情を持つことができるのか。

これは、現在のAI技術の進歩とともに議論になっていることでもあると思います。

実は、わたしは今現在、アンドロイドが人と同じような感情を持つことに懐疑的です。

人のこころほど複雑で宇宙のように奥深い領域はないと思っています。

ある程度の“感情“は持つことはできるかもしれない。でも“こころ“は持てないと思っている。

でも、それでもアンドロイドが人にとって良き友になれる可能性はあると思います。

場合によっては良き相談相手にもなってくれるかもしれません。

それは、その人のこころの中に、アンドロイドを映すものがあるからだと思います。

アンドロイドがこころを持つのではなくて、人のこころがアンドロイドを生き生きと映し出すのです。

だから同じアンドロイドでも、人によってはただの機械の塊かもしれないし、人によっては上ない友人になるかもしれない。

パーティーで、向上処置を受けた子どもたちが、AFを話題にします。

最新型のB3は放り投げても対応できるから、クララ(彼女は旧型B2)も放り投げてみようぜと物騒なことを言う子がいました。

そういう人は、きっとAFとは良い関係を築くことができないだろうなと思います。

クララにこころがあるように感じるのは、わたしたちのこころの中に、クララを映し出しているからだと思うのです。

幼少期に、ぬいぐるみやお人形で遊んでいた人のなかには、そのぬいぐるみがひとつの人格 (小説家の新井素子さんはそれをいみじくも「ぬい格」と表現されていました)のようなものがあるように感じていた人もいるのではないでしょうか。

わたしたちが語りかけると、ぬいぐるみや人形は彼らの言葉で語り返してくれる。

それは <わたし>が彼らを通して語りかける <わたし>の話す言葉だけれど、けれども決して 「適当に作り話をしている」のではないのです。

それと似たようなことが、アンドロイドにも起こるとき、それは 「こころを持っている」ように感じるのだと思います。

 *

「カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした」

(P430から引用)

カパルディさんと母親は、ある計画を立てていて、クララにも協力を求めました。

クララの観察眼を持ってすれば、外見上はジョジーを再現することは不可能ではないかもしれません。

クララも提案されたときはできるのではないかと考えていました。

でも、クララは多くのことを見て、多くのことを学んで、ずっと多くの洞察を得ていました。

それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました」と言うクララの言葉は、これ以上にないくらい格言です。

例えば、ジョジーがクララに出会って、「自分にはクララ以外のAFはあり得ない」と感じたのも、そういったことのひとつだと思います。

クララという語り手

今回はクララが 「語り手」です。

カズオ・イシグロ作品の語り手は 「信頼できない語り手(unreliable narrator)」であることが多い。

AFであるクララの目で見て、感じていること(知覚していること)は、あくまでクララの視点です。

しかし改めて思うと、じゃあ人間だったら信頼できるのかというと、そうでもないよね。

これまでのカズオ・イシグロさんの作品の語り手はクララと違って人間だったけど、クララより信頼できなかったぞ。

人間の視点ほど危ういものもない。

その人の主観で、物事は幾通りにも変わって見えるし、場合によっては自分を守るために無意識的に記憶が書き換えられたり、忘れ去られたりする。誇張されることも。同じ出来事でも、体験はその人によって微妙に異なるからです。

辻村深月さんの「噛みあわない会話と、ある過去について」なんかは、その辺を題材にして書かれています。

▽の、感想(ちゃっかり宣伝)

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そう考えると、クララをAFだから「信頼できない語り手」を決めてかかるのは随分と乱暴なことかもしれません。

むしろクララはそんじゃそこらのAFよりも優れた観察能力があります。

「ジョジーが心配なんです。状況によって人が変わったように見えることがあるのを心配しています。でも、それはジョジーが巧みに自分を守ろうとしているだけで、ほんとうは変わってなんかいないんだ、と言っています。思いやりのある絵です」

(P182から引用)

ジョジーとリックのやりとりのあとの、クララの言葉です。

ジョジーに、リックの心情をクララが代弁しています。ジョジーよりもクララのほうがよく見ている。

(あるいは、ジョジーもこころの奥底ではリックの思いやりに気づいているかもしれないけれど、自分のことがいっぱいで気づけない、ときに無意識的に気づかないようにしていることもある)

クララはそのときそのときで、彼女なりの視点で、物語を語ります。

彼女の優れた観察眼は、単に外側から見える行動だけでなく、その人の奥深く感情の機微まで時に見通します。

いや、ふつうの人間よりもすごいじゃないか。

ちなみに、これはAFだからできるというものではないようで、同じAFでも同じB2のローザとクララでも違うし、新型のB3も店長さんに言わせると、クララのこの能力には劣るようです。

クララのAF文化的なものとして、お日さまへの見方など彼女独特のものがあります。

これも、AFだからと単純にひとくくりできないなあと思いました。

例えば子どもが何かをして大人から「 どうしてそんなことをしたの!?」と怒られる場面で、子どもが説明できないことってありますよね。

でも、その子にはその子なりの世界があって、考えがあって、まったく考えなしにやっていないのです。その子のなかでは道理の通ったことなのです。

でも、その子は大人が理解できるような言葉で、大人を納得させられるような説得力のあることを言うことはできないので、結果的に何も言わなかったり全然的外れのことを言ったりして、大人には理解されなかったりする。

クララのお日さまとの契約もそれと同じような匂いがしました。

お日さまとの契約は、軽々しく口にしてはいいことではないというのもありますが、一方で人とAFでは (これ、「大人と子ども」という言葉にも言い換えられる)価値基準が違うので言っても理解してもらえないというのもあったんじゃないかな。

翻訳者である土屋政雄さんが、訳者あとがきでクララのことを「 美しいこども」と評したのも納得です。

クララはAFという素材を通して創られた「こども」なのです。

単純にアンドロイドとしてなら個性は必要ないはずなのに、AFによって個性としか言いようがないものを配されているのも、ある意味では彼らが「こども」を象徴しているからかもしれません。

そして、こどもである彼らは、唯一無二の親友である子どもたちが大人になると、一緒に大人になることはできず役目を終えます。クララも、それを当然のこととして受け入れています。

 *

不思議なのですが、クララはAFでありながら、クララの語りを通して、読み手はいろんなことを考えさせられます。

そういったことも「 カズオ・イシグロの世界にどっぷり浸かる」ことのひとつかもしれません。

信頼できる語り手の語る物語では、時につまらないじゃないですか。

つまらないことは、現実だけで十分ですよ。

結び

最近カズオ・イシグロさんの小説を全然読んでいなかったのですが、また別の作品も読んでみたいと思いました。

まだ読んでいない長篇「忘れられた巨人」を今度読んでみようかな。

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