対話について「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」中村 哲

 

8月のアフガニスタンのニュースは、とても衝撃的なニュースでした。

その前から、最近アフガニスタンの現在の状況について新聞で取り上げられているのを読んで(たしか国の正規軍の人が何ヶ月も給料が払われなくて困っている話だった)、「アフガニスタンはいまそんな状況なんだ」と思ったもんですが

でも、その数日後にまさかあんな事態になるなんて。

その後も、日々流れてくるニュースは身がつまされる思いがします。

 

本書を手に取った経緯

この令和の時代に(令和は日本の元号だけどまあそれは置いておいて)、今でもこんなことが起こっているんだと信じられない気持ちと。

いつまで経っても対岸の火事を見守る気分の他人事の自分。

 

でもそれではいけないなあ、もっと世界へ目を向けなければと思う自分もいて。

その思いは、偽善的かもしれない。所詮は他人事の域を出ないかもしれない。

 

しかし、わたしは世界のことを知らなさすぎる。

知らないままでは、何も考えることができない。語ることもできない。

 

まずはアフガニスタンのことを知ろう」と思ったときに、思い浮かんだのが一昨年亡くなられた中村哲さんのことでした。

恥を承知で正直にありのままに書きますと、わたしは中村哲さんのことを存じ上げなかったのです。

だから中村哲さんが亡くなられたとき、ニュースで大々的に報道されているのを見てもそこまで大きく関心を寄せることはありませんでした。

 

なんでだろう、自分自身はそこから自発的に動こうとはしなかったんですよね。例えば中村さんのことを知るために本を読むとか。アフガニスタンの現在の状況を調べるとか。

わたしはそういう自分がとても恥ずかしいです。

いかに日常と世界が切り離されているか、よくわかります。

 

だから「なんで今さら」と自分を諌めつつ、それでもやっぱりこころが動いたときが時機なんだろうなと思います。

わたしの取り組みはとても小さなことだし、それでなにが変わるというわけでもないんだけれど、今回は動いてみることにしました。

 

もうすでにご存知の方にはお叱りを受けるレベルではありますが、もしかしたらこれを読んでちょっと関心を持ってくださる方もいるかもしれません。

というわけで、超素人目線から感想を書いていきます。

 

感想

この本自体は2013年に刊行されていて、もう随分前のものです。

そこから中村先生が亡くなる2019年まででも、情勢の変化はあったと思います。

昨年中村哲さんについての新刊が刊行されたので、今後そちらも読んでみる予定です。

 

※2021年10月追記 読みましたので、こちらに。

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重ね重ね自分の無知さ加減を晒すことになりますが、中村哲さんが医師であることは知っていましたが(そこは知っていた)、医療と全然違うところでめちゃくちゃ活躍されていたことは存じ上げませんでした。

ついでに、アフガニスタンが昨今の地球温暖化の影響で、かつて自給自足の農業立国だったのに、旱魃による農地の砂漠化が進んで農民の多くが難民になったことも知らなかった。

医療を整えるためには、砂漠化を止めないといけない。そのために水路を引かなければと奮闘されたこと。ええーそこから!?

 

「しかし、およそ人の動機というものは複雑である。分かりやすい透明な説明は、どこか作為的である。使命感や趣味の間で揺れながら、「とりあえず医学へ」という程度に近かった。いかにも高潔な精神に燃えて突き進んだように言われると、何か違う。」(P39 第一章 天、共に在り)

 

中村先生自身も、何か大きなものに導かれるようにアフガニスタンへ行き、そこで紆余曲折あって水路を引くことに携わることになります。

最初から使命感に燃えて医師になったわけでもないし、環境問題に取り組もうと思ってアフガニスタンへ行ったわけでもない。

 

でも、なんだかそれこそ天の采配がそこに動いたとしか言いようのないものを、ちゃんと受け取った人なんだろうなと思います。

それを受け取って行動できるのもすごいんだけど、それは決して計画的なものではなくて、しかし経験を繰り返して着実に地に足がついていったもの。

 

『天、共に在り」をヘブライ語で「インマヌエル」という(異論はあろうが、ここでは日本語になじむ理解に従って、こう記す)。これが聖書の語る神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する。』(P40  第一章 天、共に在り)

 

中村先生の出身地が九州というのも運命的なものがあります。

アフガニスタンでの水利工事には、九州の昔ながらの堰が大いに参考にされているからです。

 

浅学な知識ながら、大学のときに九州は地形的に河との付き合い方がとても難しい地域だと習った記憶があります。(ミノリさんは実は農学部出身)

日本は豊かな国だけれど、災害の多い国でもある。

昔ながらの土地には、多くの災害を通して得られた人々の知恵が結晶化されてもいます。

 

近年の100年に一度規模の災害が頻発している現状は、それすらも凌駕されるところはありますが

 

あ、今思い出しました。

「天気の子」で神主のおじいさんが「近年なんてせいぜい100年。これは1000年前のものだぞ」と若者を叱咤されていましたっけ。

それでも、昨今の地球の気候変動の激しさには目を見張るものがありますが。

話が盛大に逸れました(すみません)

 

中村先生が水利工事をするなかで得たのが「自然と対話する」でした。

砂漠化って自然の大きな流れのなかでは人間では太刀打ちできないもののように思えていました(引き金の温暖化が人為的なものであったとしても)。

でも、水利工事をするなかで、水の、風の、土の、自然の流れが変わる。そうすると、砂漠だった土地が緑に包まれる。緑に包まれた土地は、また新たな水、風、土の自然の流れを生み出す。

それは工事自体は人為ではあるけれど、そこから先は自然の回答を待つことでもある。(もちろんただ単に待っているだけじゃなくて、そのあいだに為されること、そのあとにしていくこともたくさんあるけど)

 

ああ、こういう対話ってあるんだ。自然の声を聞いて、どうしていくのが良いのかなってすり合わせをする作業。まさしく対話ではないですか。

2013年当時のものではありますが、当時の写真がビフォーアフターのように掲載されていました。

それを見て、感動しない人がいるでしょうか。(残念ながら、いるかもしれない)

 

一朝一夕では成しえないこと。中村先生だけでなく多くの支援をされた方々(陰日向関わらず)と、工事に携わった現地の人々との信頼関係と努力がなければ達成されないことでした。

 

そして、その取り組みは現在も続いています。

この本を読んでからペシャワール会のホームページを閲覧しに行きましたが、現在のアフガニスタンも定期的に更新されています。

 

なんか、話の焦点がアフガニスタンから「自然との対話」に移行されてしまった感がありますが(すみません)、平和のための人道支援が表面の上っ面ではなんの意味も為さないことは、確かに教えられました。

現地の人が何を求めているか。何がほんとうに支援になるのか。

 

単に与えるだけでは駄目で(物理的な救援は、緊急時の一時凌ぎに過ぎない)、長期的な視点で必要な支援を考えること。

むずかしい、むずかしいことです。

 

引用

終章の中村先生の言葉がとても印象的だったので、最後に引用して締めくくりたいと思います。

 

「世の流れは相変わらず「経済成長」を語り、それが唯一の解決法であるかのような錯覚をすりこみ続けている。経済力さえつければ被災者(※)が救われ、それを守るため国是たる平和の理想も見直すのだという。これは戦を図上でしか知らぬ者の危険な空想だ。戦はゲームではない。アフガニスタンの体験から、自信をもって証言しよう。」(P239 終章)

※2011年の東日本大震災を指している

 

『「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。私たちは、いとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、そして本当に守るべきものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。』(P244 終章)

 

「やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人間内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。」(P246 終章)

 

これ以上の言葉があるでしょうか。

 

対話の力を信じる

21世紀は「対話の時代」と誰かが言っていたような気がします。

現実は、20世紀の世界大戦の後もずっと争いはなくならない。対話とは程遠い。

 

わたしは「対話」はずっと「人と人との対話」だと思っていました。

でも、それだけじゃないんだ。

 

ミクロでは、自分との対話(自分のこころや身体との対話)

身近な人との対話

もっと大きな枠組みでの対話

国と国との対話

マクロでは、それは人と自然(地球)との対話

 

相手の声に耳を傾けること。

お互いの考えをすり合わせること。(そのためにお互いをよく知ること)

 

どうしても観念的な話になると、机上の理想論になってしまいそうで嫌なんですが(ほんとう、自分の無知さ無力さ加減が嫌になります)

それでもやはり、そこに帰結していくんだろうなあ。

 

わたしにできることは、まずは知ること。知らないことも含めて知ること。

そして、身近なところから対話を実践していくこと、でしょうか。

 

結び

先週新聞で、ペシャワール会(中村哲さんを支援していた医療活動の国際NGO(NPO)団体。現在も村上優さんが代表を引き継いで活動されています)がアフガニスタンでの活動を再開したと報じられていました。

もともとPMS(Peace(Japan) Medical Serviceの略)は医療支援がメインの活動なので、昨今のコロナの状況のなかではさらに必要とされていると思います。

 

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