『僕は、そうは、思わない』「逆ソクラテス」伊坂幸太郎

 

昨年、無性に小説が読みたくなって図書館で手当たり次第に本を予約したときの1冊。

ベストセラーになった本ですが、実は前情報は全然知らなくて、伊坂幸太郎さんの本を読むのも初めてという不届きものです。(伊坂さんのファンの方、すみません)

しかししかし、先入観なく読んだ感想としては、めちゃくちゃ面白かった!

 

最初は「これは何の話なんだろう?」とちょっと訝しながら、しかし途中からぐいぐいと引き込まれてしまいました。

水戸黄門のような爽快感がありました。というと、ちょっと語弊がありますが。

別に勧善懲悪という話ではないですしね。

 

子どもにも読んでほしいし、大人にはもっと読んでほしい。

 

※この記事では、作品の内容に少し触れていますが、大きなネタバレはしていません。

 

全体の感想

5つの短編から成り立っています。

主人公はいずれも小学生の男の子。ときどき大人になってから回想するターンや、成長してからのターンもあったりしますが、基本的にベースは小学校高学年ごろのお話。

 

そして、権威やパワーバランスの上位に立つ人を相手に、どちらかというとその逆の立ち位置にいる人が、前者と違うやり方で立ち向かうことが概ね共通している。

例えば、運動ができるとか(なぜか小学生は勉強ができることはそれほど価値が置かれないんですよね、なんでだろう)、親がお金持ちとか、立場が強いとか。「その人たちが世の中の常識をつくるんじゃないんだよ」とでもいうのでしょうか。

 

それを笠に着て威張ったり、今風にいうとマウントとったり(わたしはこの表現好きじゃないです。なにひとつ良い要素がない)、パワハラやモラハラするのは、「それはそもそもおかしい!」という、当たり前なんだけど当たり前じゃなくなっていることに、あえて風穴をあけている。

 

小学生の男の子がメインだから、ときどきハラハラとする展開もあるんだけど、そこも込みでなんだか微笑ましくもあり、そして勇気をもらえます。

特にお気に入りだったお話をピックアップしてみます。

 

非オプティマス

「相手によって態度を変えることほど、恰好悪いことはない」(P159)

 

担任の久保先生は、ぬぼーっとした新任の先生です。

いきなり新任で高学年のクラスを受け持って、しかしぬぼーっとしているので(その理由は作中で明かされます)、一部の男子が授業中にいたずらをして授業を妨害します。

でも、それに対しても注意はするけど、強く怒ったりしません。

そのため男子(特に主犯格の男の子)はさらに先生を舐めてかかります。

 

色々あった末に(先生の秘密もこっそり主人公は突き止めます)、授業参観でもいたずらが決行されたことを皮切りに、保護者とクラスのみんなの前で、先生がお話を始めます。

最初の引用は、そのときの久保先生の台詞。

 

この作品は、久保先生や福生くん(いつも同じ服を着ていて、主犯格の男の子によくからかわれる)、潤くんのお父さんと、大人と子ども、全然立場も事情も異なる人たちが、高音、中音、低音のパートのように存在しているところが面白い。

そしてその事情はおおっぴらにされることはないんだけれど、主人公はこっそりと知る(つまり読者にも知らされる)仕組みなのもありがたいです。

 

いま気づいたけど、この小説に収録されている主人公たちは、どちらかというと、大きく物語を動かす人たちを間近で接して物語を語る役割の人が多い。

加害者にも被害者にもならないくらいの、当事者ではない目立たない立ち位置。

でも、何かを感じ取って、それがその人の生き方に大きく影響を受けている。

 

一見すると目立たないんだけど、世の中の大多数の人たちはここに属するはず。

そして、そういう存在が果たす役割も大切なんだなあと思いました。

 

「最初に言ったように、先生はみんなに、相手を見て態度を変えるような人になってほしくないんだ。だいたい、相手がどういう人なのかはすぐにはわからないからね。相手を舐めていたら、実は、怖い人だったということもあるかもしれない。最初の印象とか、イメージで決めつけていると痛い目に遭う。だから、どんな相手だろうと、親切に、丁寧に接している人が一番いいんだよ。じゃないと、相手が自分の思っているような人でないと分かった時、困るし、気まずくなる」(P163)

 

わたしは久保先生のお話に、とてもこころを打たれました。

 

なかなか相手によって態度を変えないってむずかしい。

それは立場の強い人にへつらうとか、そういう意味だけじゃなくて、人って関係性によって生きる生き物だから、相手によってどうしても異なる反応が出てしまうことがある。

 

現実はなかなかむずかしいですけど、それでも、意識的に気をつけようと思いました。

 

疑問を持つこと

子どもを躾と称して厳しく(それは厳しく)叱る親御さんや、大人の人からこういう話を聞いたことがありました。

「きつく叱って、自分を改めようと教え込まないといけない。自分もそうやって怒られて、自分を改めてきた。だから、子ども(相手)にも同じことをしてなにが悪い」

これは、体罰擁護論のほとんどの人が言うことです。

 

わたしはその「さも自分が正しい」という人たち(そういうことをいう人たちは大抵、自分の意見が間違っていると疑問を持つことがありません)の話を聞くたびに、首を傾げてきました。

 

「それってほんとう?」

 

そういう人も、あるいはいるのかもしれない。

真剣に怒られて、真剣に受けとめて、自分を改めようと思う瞬間がないとは言えない。

 

でも、それが日常的に行われていて、人はそんなに毎回ありがたく受けとめるだろうか。

怒りはパワーがあるものだから、それをどうやり過ごすかにエネルギーが使われるかもしれない。(怒っている当人が期待する、「自分を改める」方向にではなく)

「いやだな。また言っている(怒られた)」と、叱られるとどんどん耳を塞いでスルーする術を身につけるかもしれない。

「自分はダメな人間なんだ」と、トラウマになってしまうかもしれない。自己肯定感が恐ろしく下がってしまうかもしれない。

 

その方法が、その人にほんとうに合っているんだろうか。

やっている人はそこまで絶対的に正しい人間なんだろうか。

 

パワーバランスの上位の人が、立場の弱い人に振りかざすとき、そこにはどこか歪なものがあります。

「怒る」ことそのものが悪いと言っているわけではありません。

時と場合によっては、必要なときもあります。わたしだって怒るときもあります。

 

でも、それはするに値するだけのことなのか。「疑問を持つ」こと。

面倒で時間もかかるし手間もかかるけど、もっと良い方法はないかなと模索すること。

そういうのも大切なんじゃないかなと、改めて思いました。

 

あ、まあ。「される側」だけでなく「する側」にも事情があったりします。

ときには「する側」も、かつて「される側」で深く傷ついた経験もあることも、よくある話です。

そしてそういう場合、自分を守るために傷ついたこころの一部が麻痺してしまうことも、よくある話です。

 

だから、久保先生の「相手によって態度を変えることほど、恰好悪いことはない」が活きてくるんですよね。

これは、見た目強かろうか弱かろうが関係なく、すべての人に当てはまることです。

 

そして、それは自分に対しても常に自戒することでもあるなと思いました。

わたしも絶対的に正しい人間じゃないから。疑問を持って考え続けること。

 

結び

単に教訓になるようなお話ではなく、いろんな視点から眺められる物語です。

そういう意味で、これは勧善懲悪から最も遠いところにあるお話でもあります。

 

伊坂幸太郎さんの本を読むのは初めてだったのですが、ほかの本も読んでみようかなと思いました。

2021年、新しい扉が開いた感覚です(笑

 

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