前から名前は聞いたことがあったのですが、あまりよく知らなかったヴァージニア・ウルフ。
でもなんとなく気になってはいたようです。頭の隅っこに残っていた。
たまたまコロナ禍のなかで、どなたかのTwitterの呟きで「そうだ、ヴァージニア・ウルフを今こそ読んでみよう」と思い立ちました。
こういうのは、ご縁というか何かのきっかけがとても関係するようです。
(そのときのピンときたアンテナを最近大事にするようにしています。)
ヴァージニア・ウルフ
たぶんいちばん印象に残っていたのは、名前の響きです。
ヴァージニア・ウルフがどんな人だったかは、Wikipediaや他にも調べられるので、あえて知識の浅いわたしが書くまでもないでしょう。(知らない方は調べてみてね)
わたしは別にフェミニズムにも興味はないし。
でも、女性性については最近興味を持っていて(これまで興味を持たなさすぎたのかもしれない)、やっぱりアンテナの向いた方向は合っていたようです。
ヴァージニア・ウルフの生きた時代は、女性に少しずつ権利が得られるようになった過渡期。
以前オースティンを引用したときに書いたけれど、ほんのひと昔前までは、女性には選挙権も、教育を受ける権利も、財産を相続する権利もろくに与えられていなかったのです。
▽ちなみにオースティンは辻村さんの本で引用
たいてい小説を読む時は、それがなんのお話かはわからないまま読み進めます。わたしの場合、あらすじを見て選ぶよりも作家さんの名前で適当に選びます。(ときどき知らない作家さんの本を選ぶときも、特にあらす[…]
いまだって、女性が生きやすい世の中かと言われればそうではないけれど、はるか昔には夢物語のようなものだった生き方が当たり前になった。
いま日々に悩んでいることが、昔にはそんなことに悩む自由さえなかったことを思えば、なんと生きやすい時代になったのだろうと思います。
本書はヴァージニアがケンブリッジ大学の女子学生に向けた講演をもとにされていて、ブロンテとオースティンがよく登場します。
わたしは一時期オースティンに傾倒していたので(主要6作品は全部読んだ)、オースティンが家人がいない隙にコソコソっと執筆していたエピソードは知っていました。
彼女が、自分の知るほんとうにわずかな世界のなかだけで、あの作品を執筆していたことも。
今回本書を読んで、それがいかに時代を反映していたか、その非常に限定された条件であれだけの作品を生み出したオースティンのすごさに改めて敬服しました。
(エミリー・ブロンテもすごいのだけれど、個人的にオースティンのほうが好きなので、ジェイン・オースティン贔屓です。すみません)
女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない
ヴァージニア・ウルフを知る人ならば有名な、有名すぎる一節です。
わたしが今回ヴァージニア・ウルフを読もうと思ったきっかけも、この一節からでした。
このシンプルな言葉が、どれほどの重みと意味を持つか。
そのことを知れただけでも、本書を手にとった価値があったというものです。
以下、個人的に印象に残ったこと、考えたことを、引用しながら3つ取り上げたいと思います。
食事はすべてにつながっている。
実際、人間の心と体と脳は、何百年かたったらきっと違っているにしても、別々の場所に収められているわけでもなく全部つながっています。したがって、良い食事は良い会話にとってきわめて重要なのです。美味しく食べていなければ、うまく考えることも、うまく愛することも、うまく眠ることもできません。
(第1章 P35からの引用)
こういう何気ない一節に、ものすごくヴァージニアのセンスが表れていると思いました。
わたしは”食べることは生きること”だと日頃から思っていますが、それをこんなにもぴたりと当てはまる言葉で言い表してくれて、一気に引き込まれました。
(割と冒頭、これは一体なんの文章なのだろうと思いながら読んでいたときに、思いっきりこころを掴まれました)
オースティンの描いた「高慢と偏見」。シャーロットの得た『自分ひとりの部屋』
今年オースティンの「高慢と偏見」を読み返しながら感想を書くタイミングを逃しました。
ついでなので、ここで一緒に取り上げましょう。
(ちなみに新潮文庫版のタイトルは「自負と偏見」と訳しています。原題は「Pride and Prejudice」)
辻村深月さんの『傲慢と善良』を読んだときに、結婚相談所を斡旋している女性が
「結婚できるのは、自分がほしいものがわかっている人」という言葉を主人公の男性に話します。
この『傲慢と善良』はオースティンの『高慢と偏見』をもとにした作品です。
わたしはこの後、本家のオースティンの『自負と偏見』を読んでいて
「シャーロットこそ、自分のほしいものがちゃんとわかっていたしたたかな女性だ」
と思いました。
シャーロットは、主人公エリザベスの親友の女性です。
細かい話は端折りますが、エリザベスが「こんな男性と結婚するなんてあり得ない!」と求婚を断ったコリンズという男性を、ちゃっかり横からゲットしたのがシャーロットでした。
エリザベスは、コリンズを選んだシャーロットに途中失望します。
まあ、なんだかんだで友情は続いていくのですが、エリザベスとシャーロットは、大切にしているものがそもそも違うんですよね。
ヴァージニアがよく言うように、女性に権利が与えられなかった時代。
結婚できないというのは、財産が相続できない、稼ぐ術を持たない女性にとっては死活問題でした。(身分も関係していると思います)
シャーロットはエリザベスよりもちょっと年上。いまの時代ならいざ知らず、この時代だともう行き遅れになっている年代です。
コリンズというちょっと(けっこう)浅はかで面白みのない男性でも、シャーロットにとっては自分のほしいものを与えてくれる男性だったのです。恋愛感情じゃないんだよね。尊敬とか相手に対する親愛とか、そういうものでもない。
コリンズは牧師だし、後見人のキャサリン夫人にも可愛がられている。安定の職業です。(いまでいう公務員みたいなものかな)
それが如実に表れているのは、エリザベスがコリンズ夫妻を訪れたときの、シャーロットの主婦ぶりです。
彼女は、自分が使いやすいように住まいを整えています。
その最たるものが、彼女の部屋。夫であるコリンズが入ってきて邪魔しないように、そこまで広くない部屋を自分用に持っています。
そう、シャーロットは、”お金と自分ひとりの部屋”を彼女なりの方法で手に入れた女性だったのです。
シャーロットの目的は小説を書くためではないし、原作では牧師夫人で終盤には子どももできているからこれからさらに忙しくなるだろうけれど、コリンズと結婚しても、自分の領分は開け放していない。
むしろ、それを守るために結婚したともいえる。
ヴァージニアが、”自分ひとりの部屋”を主張するときに、そこには”お金”(年500ポンド)も強調しています。
貧乏では、詩を書いたり小説を書いたりすることは、とてもとてもむずかしい。
もちろん物語的には、エリザベスとダーシーのカップルが、互いの高慢と偏見を改めて結ばれていくストーリーのほうが面白いだけれど、脇を固める登場人物の描写も捨て置けません。
オースティンはやっぱり天才だなあ。
最後に、改めて『自分ひとりの部屋』を考える
わたしが簡単に飾らずに申し上げたいのは、何よりも自分自身でいることのほうが、はるかに大切だということです。
(第6章 P191から引用)
男性のほうが優れているとか、女性は劣っているとか、そういうのってそもそも比べる物差しが違うものを同じ物差しで比べているので、本末転倒です。
これまでは、主に男性が男性の物差しで測っていたから、余計にそうなっていた。
女性性とか、女性の持つ力は、男性が表現するものとは全然違うのだろうと思います。
また、LGBTの人が描くものは、それらとは違ったものかもしれない。
そして、少しずつほんの少しずつ、多様性に開かれてきた世の中(まだまだ欠点はあるにせよ)は、進歩だと思います。
昨年あたりから、わたしのなかで遅まきながら「自分の女性性とか、女性らしさってなんだろう」と考えるようになりました。
たぶんそれは、自分が自分自身でいることに繋がっていくのだろうなと思います。
前より自分が自分らしくあることを、実践できるようになってきた。
そして、やっぱり「お金と自分ひとりの部屋」を持つことは大事だというヴァージニアの主張は、的を得ているなあと納得するのでした。
小説を書くことは、こうも言い換えられるかもしれません。
クリエイティヴであること、創造的であること。
結び
こうやって、読んだものから自分の考えをまとめることは、わたしにとってクリエイティヴな作業です。書きながら、考えがさらにアップデートされていきます。
次は、ヴァージニア・ウルフの小説を読んでみようかなあ。
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ついでにブロンテ姉妹
そういえば、アン・ブロンテの作品は読んだことがない。今度読んでみようかなあ。
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