前回の「夜に星を放つ」と同じ2022年上半期に芥川賞を受賞された作品。
いつもはそういう賞をとった作品を読むとか興味がないんですけど、このときはたまたま両方読んでみようと思ったんですね。
というわけで、今回もへっぽこ初心者がつらつらと適当に感想を書いています。
※本編の内容に触れています。未読の方はご注意ください。
はじめに:今日のテーマ
いやあ。普段なかなか読まないタイプのお話でした。
これ、誰が普段の自分の立ち位置に近いかで、共感の度合いが変わってくると思う。
物語の中心にいる二谷さんや押尾さんに共感する人は、責任感を持ってお仕事をがんばっていらっしゃる人じゃないかな。
(押尾さんより二谷さんのほうがこじらせ系なので、このふたり似ているようで同列扱いしてはかわいそうな気もしますが)
わたしは、どちらかというと芦川さんにフォーカスしながら読んじゃいました。
でも、たぶん押尾さんと芦川さんの中間くらいです。
今日のテーマは
- 「強さ」と「弱さ」について
- 「おしいいごはんが食べられますように」という呪い
について、わたしなりに考えたことをつらつら書いてみます。
「強さ」と「弱さ」の定義ってなんだろう
物語では、芦川さんは「弱い」側の人認定されています。
会社のお墨付き。嬉しいことに公認ですよ。
そして、「弱い」芦川さんを、「強い」側の二谷さんや押尾さんがフォローしたり、こっそりけなしたりこっそりいじめたりしています。
二谷さんはそういう「弱い」女性に弱い(笑。あ、「か弱い」女性かな)
よくある話ですよね。
しかし、思ったのですけれど。
芦川さんってほんとうに「弱い」んだろうか。
二谷さんと押尾さんってほんとうに「強い」んだろうか。
わたしには芦川さんは、自分ができないことを堂々と主張し、自分のこころと身体を大事にする、でもここはオッケーというところはセクハラまがいでも(藤さん良い人だけどキモイです。ペットボトルは飲んじゃダメ)スルーする、めちゃくちゃしたたかな女性に見えました。
良いですか、したたかと書いて「強か」と読むのですよ。(超どうでもいい
後半の畳み掛けるような手づくりお菓子のオンパレードには、ちょっと狂気じみたものも感じました(笑)
自分のつくったお菓子が捨てられて机の上に置かれても、お菓子の差し入れをやめない。
いや。これのどこが弱いのよ。
わたしは、芦川さんは二谷さんが密かにカップ麺を食べ続けていたのに気づいていたほうに100万票入れたいくらいです。
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対して、押尾さんと二谷さんは一見強そうなんだけど「弱さを見せられない人」なのかなと思いました。
特に押尾さん。真面目で良い子なんだけど不器用で誤解されやすい人。
芦川さんは無理をしない。できないことはやらないのが正しいと思っている。わたしとは正しさが違う。違うルールで生きている。
(P43 「おいしいごはんが食べられますように」)
みんなしんどいんです。それぞれにしんどさの度合いって違うんです。
みんな同じことをして同じように生きているように見えても、それぞれに感じ方も生き方の基準も、みんな違っている。
余裕があるときは「それでいいじゃないか」と済ませられるけど。
他人に対して寛容でいられなくなるときほど、自分がしんどさの許容量を超えてしまっているとき。
「なんであいつばっかり」とか思うときには、もう自分も疲れているんです。
芦川さんが仕事はそこそこに自分の時間を大切にして(お菓子づくりに精を出して)いることに、腹立たしさを感じるほどに、彼らは自分がすり減っている。
そこに気づいて「いや、自分も体調悪いんで今日は帰ります」とは言えない人。
わからないでもないです。そう言うのは簡単ではない。(わたしだったら言えない・笑)
それをやったら、会社は回らない。残った人に負担が増す。
自分がやるしかないじゃないか。
みんなが自分のしたいことだけ、無理なくできることだけ、心地いいことだけを選んで生きて、うまくいくわけがない。したくないことも誰かがしないと、しんどくでも誰かがしないと、仕事はまわらない。仕事がまわらなかったら会社はつぶれる。そんな会社つぶれたらいいというのは思考停止がすぎる。そう思う。けれど、頭が痛いので帰ります、と当たり前に言ってのける芦川さんの、顔色の悪さは真実だとも思う。
(P66 「おいしいごはんが食べられますように」)
無理してがんばれちゃう人は、はたして「強い」人なのだろうか。
たぶん、どこにでもありそうなこと。
でもなかなか言葉にしづらい。芦川さんの手づくりお菓子を断れないように。
一見すると綺麗に善意に包まれたものは、否定するとこちらが狭量な人間に見られるのではないかと、変な罪悪感に襲われるからかもしれません。
強さと弱さって簡単に定義することができない。
弱そうな人にも強さは内包されているし
強そうな人は自分の内にある弱さに目が向けづらいのかもしれない。
「おいしいごはんが食べられますように」という呪い
そして、こじらせ系の二谷さんはそれを「食事」への腹立たしさに変えています。
もう憎んでいるといってもいいほどに。(このあたりで押尾さんと二谷さんの分岐点がやってくる)
なのに、芦川さんの前ではおくびにも出さない。
芦川さんのつくった料理を「おいしい、おいしい」と言う。
嬉しそうにお菓子を受け取る(あとでぐちゃぐちゃに潰す)
うわあ、面倒くさい人!(笑
それは、ほんとうは文学部に行きたかったのに「就職に有利だから」という理由で経済学部を選んだところにも通じています。(二谷さんの人生には、そういうエピソードが溢れているんだろう)
ずっとずっと「自分のこうしたい」に背を向けてきたから、素直な「自分はこうしたい」がわからない。
別に、食に関心がないのなら、ないで構わないんですよ。
でも、たぶんそうじゃない。
一人称「わたし」は押尾さんなんだけど、この物語は二谷さんがメインだなあと思いました。
二谷さんを語る上で、「わたし」の押尾さんがどうしても必要。
そして、二谷さんのこじらせ方に比べると、押尾さんはなんとも霞んでしまうのです。
言葉を変えると押尾さんには救いがあるというか。
最後にいろいろあって退職することになり、送別会をドタキャンし実は頭痛持ちでしたと告白する押尾さんは、清々しくまともな人です。
猫を助けようと必死で腕を伸ばし、人をチアするのは得意でも自分をチアするのは苦手な彼女が、報われる世の中であってほしいなと思います。(まあ、いじわるは陰湿だったけど。報いは受けているし)
二谷さんは、この人どうなるんだろうという感じ。
芦川さんと結婚しても、しなくても、まだあまり明るい未来が見えないなあ。
なんだかタイトルの「おいしいごはんが食べられますように」は祈りでもあり呪いでもあるような、なんとも言えない気持ちになりました(笑
というのも、この物語のなかで最も「弱い」人なのは、実は二谷さんのような気がするからです。
本人も、周りも、誰も気づいていないこと。
これって、意外とどこにでもあるような話ではないでしょうか。
最後にどうでもいい話で締めくくります。
「呪い」は「のろい」とも「まじない」とも読みます。
「おいしいごはんが食べられますように」をどちらと取るか、わたしは後者をとりたいなあと思いました。
食事を憎んでいるという二谷さんが、それでもなぜか切れなかった(芦川さん然り、既読しかしないLINEグループ然り)のには、二谷さんの憎しみだけでない感情がそこにあるのではと思うからです。
ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。
いろんな人がいろんな感想を持たれるであろう、間口の広い物語だなあと思いました。
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