作家で精神科医の帚木蓬生さんの本です。
前にどこかで目にして(どこだったか覚えてないのですが……)、ずっと気になっていました。
はじめに:ネガティブ・ケイパビリティって?
「ネガティブ・ケイパビリティ」わたしははじめて聞く言葉でした。
『ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処のしようのない事態に耐える能力」をさします。
あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。』(P3 はじめに——ネガティブ・ケイパビリティとの出会い)
もともとはイギリスの詩人キーツが使った言葉なのだそうです。
キーツは、わずか26歳の若さで亡くなりました。
本書は、キーツ、そしてキーツが使った「ネガティブ・ケイパビリティ」を取り上げた精神科医ビオンを紹介し、さらに作家であり精神科医でもある著者が独自の視点で論考を深めています。
まさに本書自体が「ネガティブ・ケイパビリティ」を地で行く(一回読んで綺麗にわかったつもりになるようなハウツー本とは趣を異にする)感じですが、わたしなりに拾ったものを言葉にしてみたいと思います。
わたしたちに身近な「教育」をテーマにネガティブ・ケイパビリティを考えていきます。
感想:教育とネガティブ・ケイパビリティ
わたしが本書を読んでいちばん付箋がつけたのが、「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」でした。
というわけで、教育を通してネガティブ・ケイパビリティを考えていきましょう。
※専門外から的外れのことを書いているところがあるかもしれません。あくまで個人の一意見です。ご了承ください。
* * *
著者の言葉を借りれば、現代の教育は「ポジティブ・ケイパビリティの養成(P186)」です。
つまり、「平たい言い方をすれば、問題解決のための教育(P186)」です。
簡単に言うと、「早く早く」と問題解決を急かす風潮です。
世の中は昔よりずっと便利になったのに、時間がない感覚「もっと、早く、早く」は昔よりさらに強くなったように感じます。
「早く早く」を耳にするたび私は、九十歳の高齢者に、息子と娘が「早く早く」と急かす光景が重なります。足元もおぼつかない高齢者に、「早く早く」と言うのは、「早く死ね」と言うのと同じだからです。ここに迅速さの落とし穴があります。
(P186 第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ)
ちなみに、わたしも仕事や家族で、一時期そういうふうに思っていたことがあります。
(「早く死ね」とは思ってはいなかったけど、自分に余裕がなさすぎて「もう、早くしてよね」と思ったことはある)
その人それぞれのペースがあるのに、世の中は一律に同じスピードを求めてくる。ような気がする。
* * *
著者が仕事の都合で家族で南仏に住んでいた頃のエピソードです。
当時のフランスにはアフリカからの移民も多く、著者の息子さん(小1)の同級生には、移民の子どももいたそうです。
そのなか(同級生のなか)に、小5〜6くらい、大人顔負けの背丈の子がいたそうです。
著者が不思議に思って訊くと、その子は覚えが悪くて1年を何年かやっているそうでした。
現代のオーソドックスな日本の教育システムでは考えられないことです。
学習の速度が遅い者は、その学年を何度でも繰り返す。考えてみれば、これが当然のやり方です。それぞれ、人によって学習速度に差が出るのは当然です。(中略)
本来、教育というのはそれが本当のあり方ではないでしょうか。(P189 )
学年ごとに到達目標は設定されているけれど、そこが達成されずに落ちこぼれていく子は決して少数派ではありません。
現代の日本の教育では
「みんな同じに」の一斉教育が確立されているけれど
一様に同じではない。
勉強の得意な子は、物足りなく感じるし
勉強の苦手な子は、ついていけなくて落ちこぼれていく。
一見「平等」だけれど、それって「公平」ではないよね。
だから大人になったとき「学校の勉強は役に立たない」なんて言われたりするのかもしれません。
(わたし自身は、学校の勉強、特に義務教育の部分は「考える基礎」を養う大切なところで「役に立たない」とは思いません。でも、その基礎が十分に習得できず、応用編のもっと面白いところまで行かずに終わっている人は案外多いんじゃないかなと考えます。とてももったいない。学校の勉強がもっと「学びって面白い」につながるといいなと思います。ちなみにわたしも勉強は嫌いでした。学びが面白いと知ったのは大人になってから)
教育って、そうじゃないだろう。
そこに「ネガティブ・ケイパビリティ」です。(わ、なんか通販番組のアオリみたいな!笑)
つまり、答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそが教育の真髄でしょう。
(中略)
学習と言えば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点しまいがちです。世の中には、もっと他に学ぶべきものがあるのに、親はそれを子供に伝えるのさえも忘れてしまいます(P191〜192)
著者は、自然の素晴らしさや芸術についても学びがあると言及しています。
(親も、日々忙しくて余裕がないと、なかなかそこまで目が向けられませんよね。。。)
孔子の言行を集録した『論語』は、およそ三分の一が芸術論になっているそうです。論じられているのは、絵画、詩、演劇、音楽で、真の人間になるためには、芸術を学ばねばならないと強調されていると言います。(P193)
へー、そうだったんだ。
おそらくそれは、わけの分からないもの、解決不能なものを尊び、注視し、興味をもって味わっていく態度を養成するためなのかもしれません。崇高なもの、魂に触れるものというのは、ほとんど論理を超越した宙ぶらりんのところにあります。むしろ人生の本質は、そこにあるような気がします。(P193)
まさにネガティブ・ケイパビリティです。
あ、ちなみに「学校の教育は意味ないからもっと芸術に力を入れればいいんだよ」みたいな単純な話ではありませんよ。
世の中には簡単に解決できないことがたくさんある、芸術はそのわかりやすい例えです。
おまけ:「忘れられた巨人」(カズオ・イシグロ)とネガティブ・ケイパビリティ
本書を読んで、なんとなく「ネガティブ・ケイパビリティってこういうことかな」と考えました。
すぐに解決できないことを、そこに身を置いてそこに「居る」こと。
そうすると、そのうち答えのほうが向こうからやってきたり、解決がむずかしかった問題が違って見えてきたり、自分自身の在り方が変わってくることもあります。
シェイクスピアやキーツ、ビオンや著者のほどには掴めていないと思うので、これも少しずつじわじわと「そういうことかあ」と思っていくのかもしれません。
* * *
以前読んだ本で、カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」という物語がありました。
※ネタバレが含まれます。未読の方はご注意を!
アクセルとベアトリスの老夫婦は、遠方にいる息子に会いにいく旅に出ます。
物語の世界では、雌竜によって人々は記憶を忘れてしまいます。
物語の終盤、記憶が思い出されるようになって、そこで老夫婦は忘れてしまっていた過去を遂に思い出します。
それは、想像以上に過酷な過去でした。
若き日のふたりであれば、その事実を受け入れることはむずかしかったでしょう。
物語では、「忘れる」という作用によって、夫婦は長年の絆を強くし、思い出したときにはお互いを許すことができたのです。
物語の結末ははっきりとは描かれていませんが、わたしは物語を通してこの夫婦のお互いを思い合う関係がとても好きで、夫婦の核心に触れたときに「今だから、もう大丈夫。それくらいで私たちの絆は壊れたりしない」と思えたことはひとつの希望であったと思います。
たぶんこれも一種のネガティブ・ケイパビリティなんだろうなと思います。
答えをすぐに出せないときに、そのモヤモヤとした状態に耐えること。持ち堪えること。
もちろんすぐに答えが出たほうがスッキリします。
でもそうじゃないやり方もあるんだと知ること。
「第十章 寛容とネガティブ・ケイパビリティ」にもあるように、切り捨てるのは簡単、そうじゃないほうがむずかしくて大変。
はっきりと「こうすればいいよ」と言えない世の中で(そういうことはたくさん、たくさんあります)、そういう考え方で物事を考える、人と接する、世の中を、社会を考える。
自分と他人、社会がお互いに寛容であるために、とても大切なことであると思いました。
関連情報
▽「忘れられた巨人」の感想もどうぞ。
久しぶりのカズオ・イシグロです。 北海道旅行の旅のお供に持っていきました。北の広大な大地と、作中のヘザーの広がるブリテン…
▽ 合理性の本にも似たようなテーマが。
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