記憶と人のこころの不確かさ『忘れられた巨人』カズオ・イシグロ

久しぶりのカズオ・イシグロです。

北海道旅行の旅のお供に持っていきました。北の広大な大地と、作中のヘザーの広がるブリテン島がどこか重なって感じられました。

この前に「クララとお日さま」を読んで、カズオ・イシグロ作品の不可思議な世界の味わい方をわたしなりに学びました。(やっと。やっとですよ)

とにかくどっぷりと世界に浸かること。

 

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※本編の内容に触れています。未読の方はご注意ください。

 

信頼できない語り手

カズオ・イシグロの作品のキーワードになっている「信頼できない語り手」

今回は、さらにさらに不可思議。

 

アーサー王亡き後の、竜が生きるファンタジーの世界。

そして、霧が人々の記憶を覆い隠す。人々は、ついさっきの記憶も忘れてしまう。忘れてしまうことにも気づかない。

一見すると王道ファンタジーのようでありながら、そこはイシグロさんの設計した巧みな舞台のなかでもあるのです。

 

記憶という不確かさ

これまでも、例えば『日の名残り』『遠い山なみの光』『私たちが孤児だったころ』などにも個人の記憶の不確かさは描かれていました。

 

人の記憶って曖昧なもの。

ときに誇張されていたり、体験が人によって微妙に異なって記憶されることは日常茶飯事。ショックの強い記憶は、自覚しないまま忘れてしまうこともあります。

 

でも今回は、そもそも記憶そのものにメスが入れられている。

この物語の世界では、記憶そのものが曖昧で忘れ去られていく。

のちにその仕組みは、雌竜の息により起こされていたことがわかります。

 

旅に出る老夫婦にとって、忘れられた記憶は鍵となります。

 

「しかし、霧はすべての記憶を覆い隠します。よい記憶だけでなく、悪い記憶もです。そうではありませんか、ご婦人」
「悪い記憶も取り戻します。仮に、それで泣いたり、怒りで身が震えたりしてもです。人生を分かち合うとはそういうことではないでしょうか」(P240)

「いま思うのは、何か一つのきっかけで変わったのではなくて、二人で分かち合ってきた年月の積み重ねが徐々に変えていった、ということです。結局、それがすべてかもしれません。ゆっくりしか治らないが、それでも結局は治る傷のようなものでしょうか」(P471)

「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧に色々と奪われていなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」(P477)

 

この物語の中心的存在であるアクセルとベアトリス。

 

アクセルが老婦人であるベアトリスをどんなときでも「お姫様」と呼ぶのが、なんだかとても素敵で

その箇所(作中最初から最後までずっとあるのですが)は、どんな緊迫した場面でもこころがじんわりと温まる心持ちがしました。

どんなことがあっても、それこそ死が二人を分つまでずっと一緒と思わせるだけの、仲睦まじいご夫婦です。

 

その老夫婦に隠された、忘れられた記憶。

それは、想像していた以上に過酷なものでした。

 

それこそ、旅の前提が覆ってしまうほどの。でもカズオ・イシグロの世界だとさもありなんと思えてしまう。

 

「if」になってしまうけれど、記憶を覆い隠す霧がなければ、このふたりはここまでやってこれなかったんじゃないだろうか。

ベアトリスとアクセル、どちらが悪いとも言い切れません。

最初に不義を働いたのはベアトリスかもしれないけれど、夫婦のあいだには単純に言えないいろんなことがあります。

 

ある意味で記憶が曖昧になること、忘れてしまうことは、傷を隠すこと、生々しくせずにぼんやりとさせる効用もある。

そして、ときにどうしても日にち薬が必要なこともある。

 

物語の結末

最後「え? アクセルどこに行くんだ。どうなるの、このふたり」的なところで終わっています。

船頭さんの視点で描かれているので、アクセルがどんな心境で舟から離れたのかは窺い知れません。

ある意味、最後は読者に判断が委ねられているようでもあります。

 

霧が晴れて白日のもとにさらされて、それでも切れなかったふたりの愛情。

わたしは、それが物語の結びとしてひとまず描かれたことで、良しとしたいなあと思いました。

 

人の記憶とこころは曖昧なもの。

すべてが思い出されて、スッキリ解決しました。めでたしめでたし」と容易にはならず、それでもどこかで折り合う地点を見つけるものではないかと思います。

 

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