きっかけはHSPのアーロン博士の本
きっかけは、HSPでおなじみアーロン博士の本からでした。
この本の第六章 HSPの仕事についてで、「ベット、マキャベリに出会う」という節があります。
セラピーに来ているベットという女性が、職場での上司との人間関係について悩むのを、アーロン博士が「もっと政治的になりなさい」と伝えます。
(アーロン博士はユング派のセラピストなので、この節の文章は、ユング心理学がわからないと、ちょっとむずかしく感じるかもしれません)
ルネサンス期のイタリアの皇子たちの相談役であったマキャベリは、残忍なほどの正直さを持って、「世の中に出て成功するためにはどうすればいいか」について書いた。彼の名前は人を操り、欺き、裏切る詭弁の代名詞となっている。
(ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ P276)
はい、そこでわたしはまず思ったのです。
マキャベリって誰?
わたしの拙い教養では、これまでの人生で、そんな名前の人は聞いたことがありません。
さらにアーロン博士の文章は続きます。
マキャベリはあなたの中にもいる。そう、彼は非情な策士だ。しかし、どんな皇子も(心根の優しい皇子ならばなおさら)冷酷な敵と同じ視点を持つ彼のような相談役がいなければ、その座を守ることができない。マキャベリの言葉に耳を傾けつつ、その地位は相談役にとどめておくのが肝要だ。
(ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ P276)
いやいや、そもそもマキャベリって誰だよ。
わたしは、この謎の人物「マキャベリ」が気になって、本の内容が頭に入って来ませんでした。
アーロン博士の本で、初めて目にした「マキャベリ」なる人物。
誰なんだろうと気になりつつ、深く探求するほどの強い好奇心もなかったのでそのままになっていました。
新聞の書評で本書が紹介されていて、「前に聞いたことがあったなあ。ちょっと読んでみるか」と手にとることになりました。
つまり、本書はわたしのマキャベリ(本書ではマキァヴェッリ)とのファーストコンタクトになります。
マキャベリ、マキャベリズムとは
マキャベリとは
イタリア・ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。(Wikipediaより引用)
マキャベリズムとは
どんな手段や非道徳的な行為も、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方[1]。ルネサンス期の政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ及び彼の著書『君主論』の内容に由来する。転じて、単に目的のためには手段を選ばないやり方を指す場合もある。
(Wikipediaより引用)
そうか。うん。わたしのこれまでの人生でイタリアルネサンス期って歴史でちょろっと習ったくらいだ。
もしかしたら、ヨーロッパ圏とか、カナダ・アメリカ圏では有名人なのかもしれない。
とりあえず、再度言いますが、これはわたしのマキャベリさんとのファーストコンタクトです。
※なお、今回紹介する書籍から引用の時はマキァヴェッリ と、それ以外ではマキャベリと表記します。面倒くさいので。
本書の構成
本書は、西洋政治思想史を専攻する鹿子生浩輝(かこおひろき)先生が執筆されています。
冒頭で、本書の目的をまず丁寧に解説されています。
マキァヴェッリは、君主がいかに振る舞うべきかという問いに対し、異様と言うべきいくつかの回答を提示している。(中略)簡単にまとめるならば、君主は、悪徳を行使しなければならないということになろう。これらの助言は、後世にマキァヴェッリをきわめて悪名高きものとした。(中略)通常「マキァヴェリズム」とは、目的のためには手段を選ばず、権謀術数を弄してもよいという考え方やそうした行動様式を意味する。
(ii 「はじめに」より引用)
著者は、世間一般に出回っているマキァヴェッリやマキァヴェリズムに対する認識をまず取り上げています。Wikipediaに書かれている情報とほぼ同じでしょう。
しかし、それは一面的な見方である、部分的な解釈に過ぎないと警鐘しています。
本書は、マキァヴェッリの生きた時代、イタリアの政治・歴史・宗教的背景や当時の国際情勢を丁寧に描きながら、マキァヴェッリの「君主論」を読み解きます。
わたしは幸いにして(?)マキャベリやマキャベリズムに対して先入観を持っていなかったので、よくわからないまま著者の誘う世界に入っていきました。
しかし、ここでさらに問題が生まれます。
わたし、世界史は得意じゃなかった……(高校の社会は地理を選択。高1の世界史の成績は燦々たるものでした)
そう。マキャベリを知るためには、世界史がいるのです。さらに、政治的な背景や国際情勢、宗教についても知識がいります。
「メディチ家って聞いたことはある」くらいのレベルでは、太刀打ちできません!
というわけで、よくそんな中学生レベルの歴史の知識の人が読んだな、レベルの感想です。よく最後まで読み進んだ、わたし。途中で何度も挫けそうになったさ。ほとんど理解できなかったけどね。
感想
大雑把にまとめると
- フィレンツェという共和国、その統治者メディチ家のために本書を構成した。
- 故に、「君主論」というのは、この場合、世襲制ではない君主(メディチ家)が共和国(フィレンツェ)をどう統治するかがメインテーマ。
- この背景を知る上で、イタリアの当時の複雑な国家背景の知識は必須(ローマ法皇の存在、ローマ帝国の隆盛と没落、周辺国との外交関係、etc.)
なので、マキャベリはなにも適当に「君主たるもの悪徳を行使しなければならない」と言っているわけではないのです。
当時のイタリアの微妙なパワーバランスのなかで、フィレンツェがどうやったら確固たる地位を築けるか、そのために君主(メディチ家)はどうしたらいいかを説いています。
ちょっと引用してみましょう。
実のところ、『君主論』でのいくつかの助言は、テクストを注意深く読むならば、かなり常識的な内容である。(中略)第一七章によれば、君主は、残酷でなければならない。しかし、マキァヴェッリはそこでは、君主が一部の人間に処刑を言い渡すという意味で残酷であるべきだと主張しているにすぎない。彼によれば、逆に、犯罪者を処罰しない「慈悲深い」君主は、殺戮や略奪を出来させることになり、結果的に残酷になろう。
(P95 第3章 善と悪の勧めより引用)
一人の罪に寛大であることが、結果的に多くの罪を生む恐れがある。なにを持って残酷というのか。
これが、ひとりの人間ではなく、「君主」という国のリーダー的存在だからこそなのが肝です。だからマキャベリは、現代でも政治論で引用されるのですね。
どうやってその国の君主になったかや、市民と君主の関係などによっても異なると書かれていて、単純に「君主だからこそ残酷でもあるべき」ではないのです。
再びアーロン博士のHSP本に戻って
ちょっとマキャベリについて、さわり程度にかじったので、最初のところに戻ってみましょう。
この節の論点は
HSP気質を持つ人(この節ではベットという女性)は、献身的で良心的で仕事も有能だが(でも同僚と仕事外で付き合うのは得手ではない)、それだけではやっていけない面がある。
もし、自分にとって不利な立場に置かれているのなら、自身のなかにある政治的側面(ここではマキャベリ)を活性化させようという……ことかな?
はじめの「マキャベリって誰だよ」から、ちょこっとだけ理解が進みました。
マキャベリは、「君主論」にもあるように、政治的な意味合いが強いです。
一見すると、国家とか、会社のリーダーとか、そういう人たちにとって必要とされるようにも見えます。
しかし、もうちょっとマクロ的な視点に立つと、わたしたちは、自分という肉体を守る一国の君主です。自分の領分を守らないといけません。
会社などの社会では、いろいろな理由で、不当に扱われることもあるかもしれない。
別に相手の領分を支配することはしなくていいけど、自分の領分を侵されそうなときは、政治的な考え方も持っておくと、便利ではないかということです。
なんか、タテ社会で成り立ってきた日本では、馴染みのない考え方です。
ここにはやっぱり文化差もあります。
でも、日本も昔ながらの終身雇用が保証されなくなってきて、考え方が変わってきている。もう会社が守ってくれる時代は、終わりを迎えつつあります。
マキャベリの考え方や、マキャベリズムが正しいかどうかは別にして、「ああそういう考え方もあるんだ」と知れたのは、個人的には面白い発見でした。
結び
前に「真説 孫子」を読んだときも「面白い! でもわかんない」と自分の知識と理解のギャップに苦しみました(笑)。
孫子やマキャベリは、時代も国も思想も全然違う人です。
そういう全然違う時代の違う国の人たちの考え方を学べるってとっても面白いことだなあと思います。
また機会があったら、ルネサンス期の歴史についてもうちょっと文献を漁ってみたいです。
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