優しさに包まれる「私小説」市川拓司

 

このブログになってから取り上げるのは初めてですが、市川拓司さんの小説は好きで以前はよく読んでいました。

で、今回たまたま読んだのが本書です。

 

最近殺伐としたノンフィクションものばかりを読んでいたので(マキャヴェッリとかね)、ちょっと閑話休題的に頭を休ませる本が読みたくなったのです。

つまり、作家さんの書いたエッセイとかを探していて、本書に行き当たりました。

 

でもやっぱりなあ。市川さんの本は、じわじわと来てしまいます。本書は、市川さんご本人に焦点の当たった本になります。

 

初めての出会い

初めての出会いは、ドラマ「いま、会いにゆきます」でした。

 

映画のほうが原作に設定が近いのですが、わたしはドラマのほうが断然好き。

成宮さんとミムラさんの若い夫婦がとてもお似合いでした。

 

このドラマを見ていると、「泣きたくなるほど優しい気持ち」になります。

 

それは、その後市川さんご本人の小説を読んでみると、ぴたりと重なる感覚でした。

 

市川さんの作品を読んでいると、よく起こることとして、自分のなかに「優しい気持ち」がコップの水が溢れ出るようにいっぱいになります。

と同時に、無神経な世界に対する相容れなさにも共感します。

 

普段は、そういう”外側の世界”に一所懸命自分を合わせようとがんばっているんだけど、市川さんの世界に触れると、「ああもう”内側の優しい世界”でいいんじゃないかな」と思っちゃいます。

 

ときには外側の世界に合わせようとして、外側の世界に染まった自分が後ろめたくなることもあります。

 

わたしはそこまで徹底した人間じゃなくて、適当さもある程度持ち合わせているので(そういうの、外側の世界で生きていくのには必要だったりする)、時間が経つとまたそういう感覚は薄れてしまうのですが、たまに読むと、「そうそう、この感覚」と再確認します。

 

たぶん、自分がいちばん傷ついているときに、世界が怖くて仕方なかった時期に、癒しを与えてくれた存在です。

 

本書の構成

本書は、以前の「ぼくが発達障害だからできたこと」の後に書かれた、著者の極めて私的な部分を描き出す「私小説」です。

 

著者の30時間あまりの思考と生活を切り取って、一緒に追っていくスタイルになっています。

ノンフィクションではないけれど、完全にフィクションでもない。

 

「ぼくが発達障害だからできたこと」もだいぶ前に読んだことはあるし、エッセイも読んだことがあります。市川さんがとても特異的な体質で、いろいろと生活上で不便をされているエピソードや、小説以上に、市川さんご本人が最も繊細な人だなあというのもなんとなく知っていました。

例えば、初期の作品がヒットしたときにサイン会をするのに、長距離移動が恐ろしく大変だったエピソードとか。

 

でも「それくらい昔は大変だったんだよ。いまは本が売れて生活も楽になって良かった。めでたしめでたし」ではなかった。市川さんの性質は、50代を超えても、変わることなく続いておられるのです。

 

そういうことが、とてもリアルに、「私小説」というかたちを使って詳細に描写されています。

 

感想

ぼくは小学生の頃から救急車を呼んでいたんだけど(当時は母親のため)、この「近所の野次馬」を、いつも「気楽でいいなあ」と思ってた。当事者と部外者。ぼくはいつだって当事者だ。部外者である人生を送りたかった。(私小説 P160 弱い夫でゴメン)

 

かつて夜中に急に40℃を超える高熱が出て、奥さんが救急車を呼んだお話を回想しながらの文章。

 

人のほんの些細な悪意にまでおそろしく敏感で、添加物を含めあらゆる化学物質にも反応してしまう体質で、植物が大好きなんだけど人里離れたところでも生活できない。なぜなら、病院のそばで生活するというのは死活問題だから。

 

このたった30時間のあいだのお話のなかでも、体調は大抵の人の何倍もの振れ幅で動きます。例えばちょっとした気圧の変化にも。

いろいろとご経験されたなかで、現在の生活が比較的安定しておられるんだろうけれど、それでも過酷です。そう表現しては失礼かもしれません。それが日常なのだから。

とてもつまされるのです。

 

毎日繰り返される定番の会話。何気ないこのひとときが、どれだけ幸福な瞬間であることか……。長く危険な夜を乗り越えて今日もまた彼女に会えた。その喜びをそっと噛みしめる。
ぼくは寝室のオデュッセウスだ。夜毎ベッドの舟で荒海を乗り越え、愛する妻のもとを目指す。

(私小説 P168 寝室のオデュッセウス)

 

本書のなかでは、奥さんの優美さんの話題がいっぱい出てきます。

奥様との逸話は、別のエッセイでも登場していましたし、小説の題材にもなっています。

 

何度も思ったのですが、市川さんがこの奥さんと出会えて、ほんとうのほんとうに良かったなあと。

この「寝室のオデュッセウス」というのも、ただ「眠る」という行為ひとつをとっても、荒海を乗り越えるほどのことが起こっているからです。

食事、睡眠、日々の生活のあらゆることが、こんなにもというほどの困難さに満ちている。

それでいながら、物語を紡ぎ出すことができて、その物語を通して、世界中の多くの人が知ることができる。繋がることができる。

 

改めて、その出会いに、奇跡に感謝です。

「生まれてきてくれてありがとう」「物語を生み出してくれてありがとう」と感謝の気持ちで満たしたい。

 

自分のことを振り返ってみる

比べるべくものではないけれど、わたしはわたしなりに生きづらさを持っています。

 

それがずっと嫌で、いまも嫌です。ずっと、”大多数”側に行きたかったし、そこに合わせようとがんばってきた。目立たないように、息をひそめるように「ふつうに」生きたかったのです。

わたしにとって「ふつう」は、大多数側。

 

いつかそうなれるんじゃないかと願っていました。

もちろん大多数側に行っても、それぞれに悩みや苦労があるし、幸せとは限りません。所詮それは幻想というのも、もうわかっています。

 

自分がそういうのを、諦めないといけないのも、もうわかっている。

 

でも、やっぱりどこかで自分の生きづらさを「なかったこと」にしたい自分がいて、それってやっぱりどこかで自分を大事にできていないことでもあるのです。

 

市川さんの文章を読むと、こころがキューっとしてきます。

 

他人にも、自分にも優しくありたいと思えてくる。世界を優しさで満たしたくなってくる。

 

今回、本書を読んでいて、先に書いた自分で自分を否定するあり方を、ちょっと考え直すきっかけになりました。

 

「生きづらさ」って言うから、なんだかそれは厄介で、後ろ向きなものに聞こえるんだ。

 

もっと違う名前を与えてあげよう。優しく、慈しんであげよう。なぜなら、それはわたしが一生付き合っていくものだから。

 

だから、このタイミングで、出会えたことに「ありがとう」と感謝を言いたい。

 

理解はされなくても、共感はある。

市川さんの日常は、ほんとうに「わかる」ことはむずかしく理解できないものです。

そしてそんな市川さんから見える世界は、とってもドロドロしたものがフィルターを通して何倍にも大きく見えるんだろうなと思います。(ケシザル星人)

 

それは、確かに、ひとつの真理でもあります。

でも、一方で、その作品に、多くの人が共感するのは、国境を越えるのは、やっぱり普遍性があるからで、そこに共鳴する人がいるからです。

市川さんほどではなくても、同じような思いを感じる人は、きっと世界中にたくさんいます。

 

個人的に思うこと。

誰のなかにも「ケシザル星人」的なものはあって(密度や表面に意識化される割合は違うかもしれないけれど)、「強欲で攻撃的な人」のなかにも、0.1%くらいは眠っているかもしれない。(逆にいうと、「ケシザル星人」的な割合が高い人のなかにも、「強欲で攻撃的」な性質も眠っているものです)

そういうものが、もっともっと活性化されると良いなあと思います。超希望的な観測ですけど。希望は大事です。

 

優しさは、じっくりと時間をかけて、声は小さいけれど、でも温かく包み込んで広がっていくものです。

 

結び

最近、個人的には自分では興味のないベクトルのものを、自ら進んで学ぼうとしています。

無知であることは、やっぱり怖いからです。誰かを傷つけてしまうかもしれないし、自分を守れないかもしれない。

でも、基本的には自分のなかにあるものとしては馴染まないので、時々疲れちゃいます。

 

だから、そういうときに出会えて良かったなあと思います。

 

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