『人新世の資本論』斉藤幸平

 

(アイキャッチの画像は図書館で借りた本なので、以前の新書版のほうで上記の商品の画像と異なりますが内容は同じです)

ずいぶん前に話題になっていたので読んでみました。

むずかしかったけど、興味深かったです。

なかなか自分の言葉で感想を書くのはむずかしいですが、がんばって自分なりにまとめながら書いてみました。

 

「人新世」とは?

人新世(ひとしんせい)」って聞いたことがありますか?

わたしはこの本ではじめて知りました。

人新世(Anthropocene)とは・・・

ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが名付けた言葉。

人類の経済活動が地球に与えた影響の大きさから、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入した言える。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味。

(はじめに——SDGsは「大衆のアヘン」である! より)

 

特に経済活動のなかで地球に大きな影響を与えているのは、温室効果ガス(二酸化炭素)です。

 

ここ数年の日本でも、台風が大型化していたり夏は酷暑になったりと、地球温暖化の影響は肌で感じます。

ある意味では、宇宙から巨大隕石が落ちてくるほどのインパクトを、じわじわと地球内部から行っているようなものなのかな……

 

本書は、そんな「人新世」の現代の課題を、マルクスの「資本論」(後年のマルクスの考え方も取り入れ近年アップデートされたもの)の考え方を取り入れて考えていこうじゃないかと提議しています。

(わたしの拙い頭での理解なので、ずれていたらすみません……

 

マルクスの「資本論」を再考する。

前提として、マルクスの資本論を知らないと話にならないのですが。(わたしは授業で習ったような気がするお粗末なレベル)

 

著者は「マルクスの資本論=社会主義ではない」と主張しています。

そもそも、マルクスの資本論は未完で、第一巻を刊行後、マルクスは膨大なエコロジー研究をしていたそうです。

 

マルクス=社会主義=旧ソ連の国有化共産主義という図式は誤り。

むしろ晩年のマルクスが掲げていたものは全然違うもので、それは現代の「人新世」の時代において有用なものであるというのが著者の主張です。(たぶん

 

キーワードは「コモン」・「脱成長

 

資本主義の経済成長を見越した「持続可能」は、全然持続可能じゃないですよ、むしろグローバル・サウス(欧米などの先進国を北と見たときの、主に南側途上国のこと)に負債を押し付けているようなものですよ、と。

 

コモンとは

近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えだ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。

(第四章「人新世」のマルクス)

 

具体的にはどんなことを指すのでしょうか。

 

〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のようにあらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指す物でもない。第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といった物を公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。

(第四章「人新世」のマルクス)

 

最終目標は、地球を〈コモン〉という共有財産として持続可能的に管理することでもあります。

では、なぜ資本主義の自由競争が問題になるのでしょうか。

 

資本主義は自然科学を無償の自然力を絞り出すために用いる。その結果、生産力の上昇は掠奪を強め、持続可能性のある人間的発展の基盤を切り崩す。そのような形での自然科学利用は長期的な視点では、「搾取」的・「浪費」的であり、けっして「合理的」ではない。

(第四章「人新世」のマルクス)

 

資本主義では、常に発展しつづける(利益を上げる)ことが目標になります。

そうすると、その皺寄せはいろんなところにやってきます。

 

端的にいうと、

働いても働いても豊かになる感じがしないから、もっと働かないとけない。

生産性を上げるために、化石燃料の消費が増える。

結果、南北問題はさらに深刻化する。

 

自由競争は、ある意味では過酷な勝ち負けの世界でもあります。

勝つ側は良いけど、負ける側はたまらないですよね。

 

ちなみに先ほど引用した箇所の最後に「けっして『合理的』ではない」とありました。

後で読んだピンカーさんのこちらの本を読むと、「ふむふむ」と納得します。

(この本の感想も、また後日上げます!)

合理的であることは、社会全体の公平性にも繋がるようです。

 

脱成長

脱成長ってなんでしょう? 成長しないこと??(そのまま…)

簡単にいうと、先進国の化石燃料を大量に消費する資本主義経済から脱却し、持続可能なレベルまで下げましょうということ。

 

持続可能と、経済成長は両立できない。それが「脱成長」の考えです。

 

脱成長とは、行きすぎた資本主義にブレーキをかけ、人間と自然を最優先にする経済を作り出そうとするプロジェクトである。

(P116 第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ)

 

けっこうこの辺の論調はラディカルな感じもあるので(現在の資本主義の在り方を否定しているわけですから……)、賛否は分かれるところかもしれません。

 

なんというか、人類が本気で地球での生存を考えるのなら(なるべく最大公約数で)、待ったなしで社会の仕組みそのものを変えていくことを真剣に考えないとダメだよ、SDGsなんて手ぬるいという感じを受けました。

 

著者も述べていますが、この論調に否定したい人の多くはたぶん自由競争の恩恵を受ける「勝者側(富める人)」です。

先進国でさえ、貧しさを感じる人は多くいます。

 

日本が先進国なのかだんだん怪しくなってきましたが、格差社会は広がっています。持っている人はさらに富めるし、持ってない人はどんどん貧しくなっています。

 

いったいあとどれくらい経済成長すれば、人々は豊かになるのだろうか。経済成長を目指して、「痛みを伴う」構造改革や量的緩和を行いながら、労働配分率は低下し、格差は拡大し続けているではないか。そして、経済成長はいつまで自然を犠牲にし続けるのだろうか。

(P120 第三章 資本主義システムでの脱成長を撃つ)

 

もう、戦後の高度経済成長のようなことは、おそらくこの先では起こらないでしょう。

つくづく社会はシフトチェンジしていくのだなと思います。

 

著者の提唱する「コモンズ」「脱成長」の両輪。

ある意味では、量から質への転換でもあるなあと思います。

もちろん地球という有限の資源を大切にするという意味もあるけれど、一方で人という資源も使い捨てずに大切に扱おうという意味も兼ね備えています。

 

AIが今後さらに発展するなかで返って価値が上がるのは、AIにはできない、人が担う役割・仕事です。

 

机上の空論・理想論という人もいるかもしれないけれど(そういう人は、自分の生活が困っていない富める人かもしれない)、いつだって世の中はびっくりするような大転換が起こってきました。

ということは、不可能とも言い切れないのではないでしょうか。

 

しかし、ここに「三・五%」という数字がある。(中略)ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。

(おわりに——歴史を終わらせないために)

 

先ほども取りあげた「人はどこまで合理的か」(スティーブン・ピンカー)という本に、世の中を変える論調のはじまり(例えば世界平和、人種差別、女性の権利等)は、意外と小さなところからはじまっていたと書かれていました。

バタフライ効果(「風が吹けば桶屋が儲かる」的な)は、意外と馬鹿にできないのです。

 

かんたんな感想

早く、早く、たくさん、もっと豊かに。

そうして世界のスピードがどんどん上がっていくなかで、豊かになってきたかと言われれば、令和の時代になって、明らかに日本は貧しくなりました。(これを書いているとき、まさに、スタグフレーションの真っ最中。まさか社会で習った現象に自分が出くわすとは思わなかった)

 

もちろん昔がすべて良かったわけじゃないし、改善したところだってあります。もちろんあります。

でも、全体的には弱い立場の人には「自己責任でしょ」的な感じがあります。

一部の人だけが利益を掬い上げ、全体的には暮らしにくい世の中になってきているような気がします。

 

著者の主張がすべて正しいとは言わない。

でも、一考の価値は十分にあるのではと思いました。

 

ノードラボの動画から

わたしが最初にこの本を知ったのは、北欧スウェーデンに住む日本人女性のおふたりが発信する動画からでした。

 

スウェーデンに住んでおられるからこそ見える視点(日本との違い)も話されていて、個人的に興味深いなあと思います。

 

おまけ:どうでもいいわたしの「脱成長」

※本書の狙いとはずれたお話です。読み飛ばしてOK(巻末の関連情報へスキップ)

 

本書を読みながら、わたし自身も「そうだ。脱成長だ」と納得してしまいました。

というのも、ずーっと成長(例えば給料を上げること、ブログのPVを増やすこと、収益を増やすこと)に向けてがんばってきたんですが「もうこのへんでいっかなー」と最近思い始めていたからです。

 

収入の話。

生活の安定のためにはもうちょっと収入を増やしたい。

でも、そのために頑張ると、わたし自身の生活の質は確実に下がる。

(忙しくなると人生が絶望的になるのです。毎日絶望のなかに暮らします。休日は平日のマイナスになった電池を充電するだけで終わります。うつモードへまっしぐらです。)

 

ブログの話。

ブログもね。もっとアクセス増やしたいなあとか、収益上げられるといいなあ(働かなくていいくらいに)と思わないことはないですよ。

でも、そのために頑張ると、わたしの“やりたい“や“楽しい“の質が下がる。

当初掲げていた目標は一応達成できたし、もういっかなーと思いました。

 

それよりも自分自身の“やりたい“や“楽しい“、”これをもっとやってみよう”の方向に舵を切ったほうがいいなあと。

それを脱成長と言っていいのかはちょっとわからないのですが。

 

もちろんある程度までは成長も良いと思います。

でも、いつまでも成長を目指し続けると、ずーっとペースを緩めずに全力疾走するようなもの。

ペースを維持し続けるのだって、けっこう大変。

成長は、「現状維持+α」です。

脱成長は「成長の反対側(下降)」ではなく、「持続可能であること」でもあると思いました。

 

でも、どの辺までを「持続可能なライン」とするかは、人(置かれている立場、価値観、家族構成などなど)によっても異なるので、社会全体でとなると実現していくにはなかなか課題も多いなあとも思います。

 

結び

わたしも著者の考え方に100%賛同しているわけではなく「そういう考え方もあるんだ」的なレベルです。

もっといろいろ学んでおきたいと思います。

 

 

こちらの本もまた読んでみたいと思います。

ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。

 

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