”私”ってなんだろう「アムリタ 上」吉本ばなな

吉本ばななさんの小説は、一時期よく読んでいたのだけれど、最近は全然読んでいなくて、「違うことをしないこと」(エッセイ&対談)を読んだくらい。久しぶりです。

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「アムリタ」は読むのは初めて。

いつもは上下巻の作品は下巻まで読んで感想を書くけれど、今回は上巻まで読んだところでの感触を記しておこうと思います。(これを書いている時点で、まだ下巻は未読です)

 

アムリタとは

アムリタという言葉。

耳慣れない言葉なので調べてみました。

アムリタ サンスクリット語。甘露は、インド神話に登場する神秘的な飲料の名で、飲む者に不死を与えるとされる。乳海攪拌によって醸造された。

※「乳海攪拌」はヒンドゥー教における天地創造神話のこと。

Wikipediaより引用)

 

 

インド神話か。それは確かに、わからないわけだ。

ちなみに辞書には載っていなかったです。

 

”私”という存在の不確かさ

人間が、今ここにあるこのしっかりした塊が、じつはぐにゃぐにゃに柔らかく、ちょっと何かが刺さったり、ぶつかったりしただけで簡単に壊れてしまう代物だというのを実感したのは、最近のことだった。

(アムリタ上  P60)

 

上巻は「メランコリア」と「アムリタ」からなります。

 

「メランコリア」は主人公の妹真由がまだ亡くなって間もないころ、「アムリタ」はそれから4~5年後を描いています。(正確な年齢はわからないけど、弟の由男が「メランコリア」は幼稚園、「アムリタ」は小学4年生)

 

「アムリタ」の私と、「メランコリア」の私は、ちょっと違います。

 

ある日階段から落ちて強く頭を打った朔美は、目が覚めると別の”私”になっていた。

これが記憶喪失と言われるとわかりやすいんだけれど、そうじゃないからややこしい。

 

目が覚めた瞬間は、母のこともわからなかったけれど、徐々に記憶を取り戻し、過去のことは記憶として”知っている”。でも、周囲からは「別人になったみたい」と言われる。というのも、頭を打つ前の”私”と、後の”私”は何かが違うから。

 

でも、記憶を持っているから、話を合わせることはできる。

 

「メランコリア」の朔美は”前の私”、「アムリタ」の朔美は”後の私”。

同じ記憶と外見を持った、でも違う私。

 

頭がこんがらがりそうです。

 

そうやってアムリタ朔美ちゃんが読者に説明してくれるから「ああ、そうなのか」と思うけど、その説明がなかったら、そこまで違和感を感じるだろうか。

 

周囲の人は、「別人みたい」と言いながらも、アムリタ朔美と変わらず関係を続けているのです。

「アムリタ」上巻を読み終わってから、改めて「メランコリア」を読み返してみたけれど、この予備知識がなかったとき、わたしは果たして違和感を感じただろうか。

 

そもそも、”私”ってなんだ?

人を人として、その人として基底するものってなんだ?

 

だってアムリタ朔美は記憶を持っているのです。だから「あの時はああだったよね」と体験を共有することはできる。

「なんか変わったよね」と言われても、家族も友人も、以前からの繋がりのなかで朔美と付き合っている。

 

たぶんそこに違和感をいちばん覚えているのは主人公本人で、だからこそ読者にときどき投げかけている。

思考の袋小路に陥りそうです。

 

事故で変わってしまうこと~現実のことから~

染色家の坪倉優介さん

以前、事故ですべての記憶をなくした人の手記を読んだことがあります。

 

よくドラマやアニメで記憶喪失になるという設定がありますが、実際に記憶喪失になるという体験を読んだのは、後にも先にもこれだけ。

これはほんとうに、全部全部忘れてしまった。食べることもトイレに行くことも忘れてしまったそうです。

 

この手記を書かれた坪倉優介さんは、その後紆余曲折があり染色家の道へ進まれます。

もう随分前に読んだのだけれど、衝撃的でした。

 

フィニアス・ゲージ

フィニアス・ゲージは心理学や精神医学では超有名人です。

米国の鉄道建築技術者の職長だったゲージは、大きな鉄の棒が頭に突き刺さるという大事故に遭いながら奇跡的な生還を果たした人物です。

しかし、事故の前後で性格が大きく変わり、脳の損傷(特に、脳のどの部位)がどのように人格に影響を与えるか、まだ脳神経科学が未発達の時代に、大きな反響を与えました。

 

これは人格が変わった例だけど、実際に本人の体験がどうだったかは詳しくは文献が残っていないようです。

 

決定的なのは、事故で頭を打ったということ

事故が原因で脳が損傷し高次機能障害になると、事故の前と後でまるで別人のようになることがあります。

脳はそれほど、人をかたちづくる重要な場所です。

虐待を受けた子どもが、脳が萎縮するということもあるように、単純に頭を打つだけが引き金ではないけれど。

 

”私”という存在は、しっかりと確かにあるものではなく、冒頭に引用したように、じつはぐにゃぐにゃといつでも壊れる可能性のある、脆いものでもある。

 

朔美は、脳神経科学レベルでいうと、脳のどこかが損傷したのかもしれない。

それは精密検査でわかるレベルなのかはわからないけれど。実生活を問題なく送れているから、傍目には困っているようには見えないけれど。

 

不確かさを、どこか違和感を覚えながら、でも弟の由男や竜一郎(かつての妹の恋人)、母や同居人と接している。日常を過ごしている。

みんな朔美として接していて、そこでは存在が肯定されている。

 

でも、奥のほうに漠然とした違和感は持っていて、でも”私”として生きていく。

 

人は不変のものではなくて、変わっていくことのできる存在です。

また別の意味で、例えば認知症になってかつてと別人のように感じることだってある。

 

でも、その人はその人である。

”私”を”私”としているものってなんだろう?

 

外見? 性格? 関係性? どれも正解であるようで、どれもこれが正解とは言えないような気もする。複合的なものというか。

これに答えはあるのだろうか。

 

そういうもやもやを抱えながら、下巻へ進みます。

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