4月からはじまったアニメの感想を細々と書いていましたが、10月に入りアニメの感想はお休みすることにしました。
感想を追いかけるのがだんだん大変になってきた大人の事情です。
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【ブログのお知らせ】
4月から続けてきたアニメマンキンの感想を終わりにします。日曜から鬼滅も始まるし、悩みましたが、これからアニメは気が向いたら考察記事を書くスタイルにします。好きな作品なので、これからもひっそり応援していきます。
— ミノリ|とりねこブログ (@minoritorineko) October 6, 2021
その代わりといってはなんですが(なにせこの記事は8月から準備していた)、今回は原作の漫画についての感想です。
はじめに
わたしはシャーマンキングはアニメから入った人なので、原作漫画は今回の講談社から出た新装版で初めて読みました。
ジャンプで打ち切りになり、その後単行本で完結まで描かれたことをネットで知り、前々から原作は読んでみたいなあと思っていました。
しかし機会に恵まれず(なにせ巻数が多いんだ)、今回の再アニメ化をきっかけにTSUTAYAさんで新装版を借りて読むことができました。(最終巻だけ電子版で購入しました。34巻も買おうか迷っている……)
というわけでやっと最後まで読むことができたので、この辺でマンキンについて真剣に語ってみようと思います。
※講談社から出ている新装版「SHAMAN KING」1~35巻(35巻のみ電子書籍で購入)をもとにしています。物語中盤~終盤のネタバレがありますので、アニメのみの方はお気をつけください。
※ついでに「SHAMAN KING 0」全2巻(集英社)、「SHAMAN KING THE SUPER STAR」1~5巻(講談社)も読みました。今回は、そちらにもちらりと触れています。
※個人的な見解で適当につらつら書いています。ご容赦ください。
原作打ち切りについて
2001年版のアニメはまだ原作が完結していなかったこともあり、途中からアニメオリジナルの展開に移行していったので、原作を読んでみると全体的に「シャーマンファイト2000」に向けてほとんどブレることなくストーリーが進んでいるのがわかります。
作者さんの描きたいものは、ずっと一貫していたんだなあと思います。独特の世界観や表現力。
それが当時のジャンプの読者層にマッチしていたかどうかは別にして、そういうところは好きです。
わたしも途中までは結構楽しんで読んでいました。
「アニメよりも原作のほうが面白い! さすがだ」と、ワクワクしながら。
うーん、でもね。
正直そんなわたしも途中から読むのがしんどくなってきました。
35巻まで読み終えて「これはなかなか評価のむずかしい作品だなあ」と思いました。
良くも悪くも読む人を選ぶ気がする。これは、例えば某海賊漫画のように万人受けしやすい作品ではないなあと思いました。(ちなみにその某作品は、わたしは空島編に入ったあたりで挫折しました。それっきりアニメも漫画も目にしなくなった)
そこが武井作品の魅力なのかもしれません。
わたしは個人的には「全体的にはやっぱり好きだなあ」と思いましたが、それでも「うーんこれはどうなんだろう」と思うこともありました。
そういう風に複雑な感情を漫画に持つことはあまりないので、それもめずらしいです。
ここはあえて辛口に、苦手なところも正直に書きつつ、最終的には好きかもと思えるところまで考察してみます。
個人的に苦手だったところ
シャーマンが強くなる条件
この作品のシャーマン独自の強くなる方法として、「死ぬことで強くなる」ことがあります。
特に神クラスのシャーマンになると、蘇生することが可能になります。
葉たちはこれで何度も叩き上げられて強くなります。
後半になるほど、特に十祭司との戦いではそれが顕著にあらわれていて、何度も蘇生が行われます。
もちろんこれには条件付けがあって
- 蘇生&パワーアップはシャーマンのみ
- 地獄を通り抜ける特訓的な意味合いもある。
- 蘇生には蘇生する側も大量の巫力を必要とするため、無限にできるわけではない。
などあります。
それでも何度も「死→蘇生」が繰り返されるのは、読んでいて気持ちの良いものではありませんでした。
「死と再生」がシャーマンにとって最大のイニシエーションになるのは理解できますが、こう何度も乱発されると、命が軽んじられる感覚になってしまいます。
もともと「霊と交流することができる」能力のあるシャーマンにとって死後の世界は一般の人々よりは近しいものではあるのはわかります。
それでも、うーん。死がなにかの終わりにならないのは、やっぱりなんかなあと思ってしまった。
31巻以降のプラントでの十祭司との戦い
ハオがシャーマンキングになって、それを阻止するべくハオのいる場所まで行くのに十祭司が立ちはだかります。
改めて確認すると31~34巻のたった(!)5巻分なんだけど、打ち切りになったのはこの32巻の286廻。(伝説のプリンセスハオと「みかん」の回!)
たしかに。たしかに。この流れは苦行のように読んでいてしんどくなりました。
当時の読者層に受けなかった要素が、王道的少年漫画の設定にそぐわない方向性だったのかどうかはよくわからないんだけど(個人的にそこはこの漫画の最も特筆すべき良い点だと思っています。後述します)
ハオのいるグレートスピリッツのところまでたどり着くのに、容易にはいかないのはわかるんだけど
だからこの過程は避けて通れない通過儀礼なのはわかるんだけど
なんかほんとうに苦行。しかも救いがない。敵(ここでは十祭司)も味方も容赦なくボロボロになる。
でも、物語の終焉を迎えるためには、ここは通らざるを得ない通過点なんだなあと思うと、「今は辛いけどがんばって読んでね」と思いたくなるところでもあります。
SHAMAN KINGの最大の功績
主人公の存在の大きさ
そんな感じでわたしも苦手なところはあるですが、それでも最終的に「やっぱりこの作品は好きだなあ」と思えたのは、主人公の存在でした。
個人的に、マンキンのいちばんの功績って「少年漫画の主人公っぽくない人」を主人公の座につかせたことだと思う。
麻倉葉の存在が、マンキンに欠かせない要素。
主人公だから当然なんだけど、続編にあたる「THE SUPER STAR」を読んでいて、無印の作品の底力は葉の存在だなあと思いました。
※あとで気づいたのですが「THE SUPER STAR」は続編の続編にあたるので、それを読む前に「FLOWERS」や「レッドクリムゾン」などの作品を読んでおかないと意味がわかりません。しまった。
せっかくなので葉について考察してみます。
葉の抱える闇
34巻でハオによってあっさりと全滅になって、ハオと葉がひとつになったときに、葉が本音を漏らします。
「知ってんだろ。オイラもあんまり人が好きじゃねえってこと」
(SHAMAN KING 34巻)
これは、実はほとんど誰にも話していないことです。
ちなみに「SHAMAN KING 0」の冒頭(「ニュー・シネマ・パラダイス」)で、「だってオイラみてぇのが神サマになったらさ きっと人間なんかみんな滅ぼしちまうもん」と幽霊のおねえさんに打ち明けていて、既に彼は小学生のころにはその思いを持っていたことが明かされています。
実は実は、葉は誰よりもハオに近い位置にいた人だった。
というか、この二人はもともとおそらくひとつの魂から分かれた存在で、根元的には似ているんだろうなあ。
だから、ハオの孤独や人を憎む気持ちを、おそらくハオの身近にいる人よりも誰よりも理解していたのは葉自身だったのかもしれない。
主人公の持つほんとうの強さ
葉とハオの違うところは、その”強さ”です。
シャーマンは”心の強さ”が能力の強さにも関わってくると言われています。
そしてハオは圧倒的。葉は主人公よろしく、物語を通してだんだん強くなっているけれど、それでも数値化した巫力では最終的にリゼルグやチョコラブには劣ります。
全体的な位置は、いまいちパッとしないポジション。(そこが葉くんっぽくて良いよね)
一見すると”心の強さ”もハオのほうが圧倒的のようです。
でも、葉の強みってそういう強さではないんだよね。
むしろそこで物理的に(それこそ巫力という数値化されるもので)強くなりすぎてはいけないんだと思う。
競う次元がそもそも違うのです。
個人的に思う葉の強さは、「自分の弱さを知っている」ことです。
そして、それはハオが徹底的に排除してきたことでもある。
自分の弱さを知っている人は、逆説的にある意味で強いのです。
弱いから人を頼れる。自分の弱さを知っているから、人の弱さも認められる。だから排除ではない方向に働く。
なぜか葉と関わる人は最終的にみんな葉とごはんを食べられる仲になるのは、そんな彼の”緩さ”にあると思います。
葉が手に入れた「無無明亦無(むむみょうやくむ=巫力無効化)」も、破壊ではないところが実に彼らしい。
そしてそんな葉にかかれば、ハオも「世界を滅ぼす悪」ではなく「孤独で寂しい人」になってしまうし、だから最終ゴールが「敵を倒す」ではなくなるんですよね。
葉はかなり早い段階でこのゴールを想定していたと思う。
それは、あまりよくわからずにほぼ直感的にアンナの孤独を見抜いた過程にも似ています。
葉とハオも似ているんだけど、一方でハオとアンナも似ている。この構造って物語の面白みでもあると思う。
最後に葉がいつもの笑顔で「ウェッヘッヘッ。良かったなぁ にいちゃん(35巻)」と言った時点でハオの負けは確実になりました。(このセリフを日笠さんがアニメで言ってくださる日がとてもとても楽しみです!)
これって最強。だから双子で生まれてきたのかなあと思いました。
ハオのことを「にいちゃん」って呼べるのは葉だけだし、これって家族って意味だし、兄だと認めたことでもある。麻倉家の誰も思いつかなかったこと。でもこれは麻倉に生まれた人にしかできないこと。
そして、なんていうか。
「シャーマンキング」よりも「シャーマンキングの弟」ポジションのほうが葉らしくて良いし、逆に最強じゃないですかと思ってしまいました。
うん。「ちっちぇえなあ」は実はハオ様のほうだったんですねという話。
そしてほんとうに強くて心の広い人は「ちっちぇえなあ」なんて言わないんだよ。
ハオはそうやって自分と周囲を切り離すことで、自分のこころの弱い部分を守っていたんだろうなあ。
おまけ:34巻巻末REMIX TRACK:15
巻末に収録されているおまけページ。15は「魔界侵略プリンセス決戦」
まん太の夢オチ「プリンセスハオ」の詳細。
個人的にこのお話(?)がいちばん好きです。
5人の戦士の自己紹介と性格が端的に表現されているのも良し。
ここまでつらつら長々と書いたことがこの数ページにぎゅっと凝縮されています!
その後のマンキンのストーリー
今回読んだ作品(0とTHE SUPER STARも含めて)を通して、「好きだけど全部は受け入れられないなあ」とわたしは思ってしまいました。
これは、わたしが普段少年漫画に馴染んでいないのもあります。少年漫画的なノリにあまりついていけないのです。
なんでかなあと思ったのですが、たぶんわたしのマンキン愛は麻倉葉という主人公の存在がとても大きいです。他の登場人物もそれなりに好きだけど、特にこの作品は主人公が別格で好き。
特にアニメから入ったから、佐藤ゆうこさんののんびりした葉くんの話し方(日笠さんもそれを踏襲されていてうれしい)が、とても好き。普段ゆるゆるなんだけど、大事なところは折れない芯の強さも好き。
わたしは基本的に主人公が合わないとなかなか続けるのがむずかしい。物語に同調できないからです。
*
「THE SUPER STAR」を読んでいて「うん、これは読むのがキツイな」と思ったのはそこです。主人公が次の世代に移っているから、同調できないんだ。
アルミちゃんや花くんとか、次世代の子たちも魅力的なのですが、”静”と”動”でいうと”動”のほうが強すぎて、どうもついていけないようです。
無印マンキンは葉という存在が究極に”静”や”緩”を体現していて(だから少年漫画の主人公っぽくないんだけど)、わたし的にはバランスがとても良かったんだなあと思いました。
他のキャラが”動”をしていても、葉が基本的には”静”の人なので話が引き締まるのです。
ただ、「THE SUPER STAR」は続編の続編になるので、よく知らず手にとってストーリーについていけなかった部分もありました。
そこは他の続編を読んでみるとストーリーがもう少しわかりやすくなるかなあと思います。
※これはかなり主観のお話なので、同調しやすい人はぜひぜひ続きのマンキンワールドにも浸っていただけると嬉しいです。
結び
原作を読んでみて、「強さってなんだろう」と改めて考えさせられました。
いろいろあるけど最終的にみんなでごはんを食べられる仲になれるのが、平和を体現することなのかもしれません。
アニメは35巻分の厚みを1年間でぎゅっと凝縮されるようなので、どこまで描き切れるのか心配になりつつ楽しみでもあります。
20年前に好きだった作品を、いまでも同じ(というか当時以上の)熱量で応援できる作品ってそうそうありません。
総合的に見て、わたしはシャーマンキングは「かなり好き」のほうに分類されるなあと思います。
関連情報
ちなみに35巻の紙版コミックスは10月15日発売ですよ。よ!
▽アニメも引き続き応援。
アニメが終わったらまた長い考察でも書いてみようと思います。
自己満足ですよ。そうですよー